宗教に対しては、従順さこそが必要であるのだ、ということ | LEO幸福人生のすすめ

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 月刊『ザ・リバティ』には 『宗教的従順と洗脳は何が違うのか』という論考が先月に続いて掲載されている。  

 

 

(以下は、ご論考の感想ではなく、このテーマに関して、わたし個人が思うことを述べたものです)

 

宗教を批判・否定する者は、「洗脳」という言葉を使って批判すれば、宗教は洗脳をするから怖い、といって、人々が宗教に近づかないように、宗教批判を行なえると思っているらしい。

「洗脳」という言葉自体が、悪質な印象操作目的で、悪用される言葉となっているわけで、それを狡猾にも利用して、洗脳、洗脳と言いたがるわけだ。

基本、洗脳があるから宗教は危険だ、と言うような人間には、信仰心などは無いのが普通であるし、ご都合主義で自分には信仰心があると幾ら自称しても、宗教全般を基本的に批判するような自分中心タイプの人間に、まっとうな信仰心など無い、とわたしは思っている。

 

その宗教が、神仏の目から見てもまともな宗教であるのならば、その宗教を深く信じて、その教えに従順にしたがって、自分の心を改めようと努力することは、正しい生き方であるし、そういう姿勢で学べている人にして初めて、真の意味での信者だと言えるのだと、わたしは考える。

幸福の科学においては、それが出現した初期も初期の80年代後半だかにしてすでに、幸福の科学の信者になったのなら、黄金光線に染まってもらいますよ、と主宰先生は最初から言っていたわけで、幸福の科学的なる教え、エル・カンターレの元で学ぶ、ということは、その教えや考え方に、自分自身を合わせてゆくこと、黄金光線的な考え方が出来る魂となるべく、自身を磨いてゆく、ということを誓って、入会するものであったわけだ。

三宝帰依というのは本来そういうものだし、仏教の教えを学ぶと言いながら、ある面に関しては、わたしはその教えを信用しない、キリスト教の立場を採る、だとか、無神論や進化論の説を採る、などという好き勝手を言う人間は、これは帰依ではなくて、自己都合の、自分を優先した自分教の人間に過ぎない、わけである。

 

自分の魂が、もともとはキリスト教的なる魂であったり、儒教的な教えのもとで転生した魂であったとしても、今回、黄金光線の宗教的なる学びをする以上は、徹底してその教えを学ぶ、というのが正しい生き方であるわけだ。

だから、一生懸命、幸福の科学で真剣に学んでいる人ほど、大川隆法先生と近い考え方が出来るようになってゆくのが、あるべき弟子の姿なのであって、これは、キリストの弟子なら、キリストによく学び、その考え方・生き方に近づくのが理想であるように、仏陀の弟子になるのなら、仏陀の考え方に近い考え方を、自分でも自然と持てるようになってこその、優れたる弟子であるはずだろう。

なのに、そうした、師の考え方に近づくべく努力する弟子たちの生き方を指して、洗脳されている、だとか、教祖の考えに合わせるように強要されている、だとかいう難癖を言う人間は、それを言う人間の方こそが愚かなのである。

洗脳などという言葉を使って、教祖や教え、教団を貶めることが出来る、などと思いあがっている卑しい精神こそは、哀れなるかな、愚かなり、と言うしかないわけである。

 

宗教的従順、師に対する従順さの重要性、というのは、以前、修道院に関して考察した記事の数々でも述べたことがある。

宗教的修行、みずからの魂を宗教的に深く磨いてゆくためには、その教えに対して深く敬う敬虔さが必要であるし、自分を導いてくれる師や先輩たちに対しても、従順なる態度が要求される、ということを、歴史的事実も踏まえて考察したことがある。

 

 

ヨーロッパの基本精神となっていくキリスト教において、戒律の重要性、というものがすでに5~6世紀に生きた聖ベネディクトによってまとめられ、これが後代の教会にも受け継がれて、宗教修行の基本姿勢として語られている。

これは、プロだけがやればいい、というわけではなくて、本当にその人が深い宗教的精神を持っているのならば、かならずや、その人には、ここで述べられているような戒律の精神、みずからを律する心があるに違いないし、その基本姿勢なくして、深い宗教心を獲得しうる、ということは決してないだろうと、私には思える。

 

いくら在家信者とはいっても、神仏に対して深い尊崇の心が無いような人間に、深い信仰心が根付いているなどは、決して有り得ないし、善行を行なうこと、無駄話は控えて沈黙を心掛ける自制心、謙遜なる気持ち、他の人に対する礼儀、共同生活をおくるなかでルールを順守する姿勢、その他、さまざまな課題を克服することが、自分を治めていると言えるためには必要なはずである。

なのに、これをやらず、神仏に対しては従順ですら無く、自分勝手のつまみ食いばかりのご都合主義、自分教で勝手なふるまいをし、他の人に対しても傲慢であったり、自分に対しては自惚れていたり、従順さは洗脳・奴隷になることだから、従うことを拒否して、好き勝手な選択が許されることが自由だと言い張る。

不平不満を言いたいだけ言って、自分でやれる努力はまるでやらずに放棄した分際で、他者批判ばかりをして、自身を顧みて反省することをしない。自分は棚に上げてしまい、他を裁くことばかりに夢中になって、自惚れ天狗になってしまっている。

こんな生き方をしているようでは、宗教者としては落第どころか、やる資格すら無いというべきであるから、場合によっては追放されるのも当然だし、自分勝手に離反しても、その離反を洗脳解除だなどと自分に都合よく置き換えて、自身を正当化しようとも、神仏の前での所業としては、退転にすぎず、魂の転落にすぎない、という事実は改竄しようもないのである。

 

それが本当に、神仏がこの地上に降ろさんとした、正しい教え、神から出た正しい教えであり、その教えに基づいた正しい宗教組織であり、その中心にいるのが、正しい宗教的リーダーであるのならば、その教えに従って生きるのは、善であり、神からも嘉される生き方である、そう信じてよいはずである。

その教えを正しい教えであるとは、自分としては思えない、ゆえにわたしは造反する、といって、アンチ活動をする人間は、自分の方が正しくて、自分が批判している宗教が、神からではなく、悪魔から来ている邪教であることを、この世の人たちに説得してみるがよい、と言うしかないのだが、その判断が、神仏の目から見て正反対であった場合、この人はもはや、天国に入るどころか、暗く厳しい暗黒の世界にみずから自身の誤判断で入ったことを、その責任を、自分で受け止めるしかない、ということも、指摘しておくべきであろう。

霊的世界を、真の意味で実感的に理解できていない人ほど、頭の中の抽象的なあさはかな理解レベルのみでもって、安易に判断して、地獄だというのなら仕方がない地獄に堕ちるさ、などと嘯くが、そんな安直な返事で、のちにやってくる途方もない苦しみが加減されるはずもないことも、述べておく必要がある。

 

『往生要集』で源信は、読むだけでゾッとするような、この地上のどんな苦しみよりも遥かにきつい、想像を絶するような地獄をさまざまに活写している。

しかして、私たち信仰者は、それがキリスト教であれ、仏教であれ、幸福の科学の教えであれ、地獄に堕ちる恐怖から逃れるために、いやいや教えを勉強しているわけではない。

教えを正しく理解して、まっとうな生き方をしていれば、そんな地獄に堕ちることを、怖れる必要さえ無いのだし、怖れゆえに学ぶ、などという部分は、学びの気持ちの数パーセントにも足らない程度のものでしかないだろう、と思う。

恐怖からの勉強などが延々と続くわけもないのは、親や教師から厳しくやれやれ言われてする勉強では、本気でずっとやり続けることが無理なことからも、容易に推定されるというものだ。

真剣に学ぶ、学び続けることが出来る、誰に強制されるでもなく、好きで自分から進んでずっと学ぶことが出来る、というのは、その学びの大部分が、喜びの学びであるからだ。楽しく、うれしく、心からの喜び、感動であるからこそ、真の宗教修行者は、そこまで本気になって学ぶことが出来るのである。わたしは、そう思う。

 

そういう気持ちで、正しい教えについて学ぶ時に、従順さというのは、当然の姿勢であるし、神仏に対して、その教えに対して敬虔な姿勢、尊崇する気持ちが深まれば深まるほど、従順であることは当然となってゆき、負担でもなければ不自由でもない、むしろ従順であることのなかに、みずからを空しくして無我を悟り、他の人を我が事のように愛する一視同仁の境地、無我なる愛の気持ちが芽生えてくるのではないかと、わたしは思う。

従順を、洗脳と置き換えるような不純なる心の持ち主は、自己保身の気持ちが強く、自分は騙されまい、他者も騙されないように導くのが自分の正義だ、などと勘違いしつつも、自己を正当化しているのだろうけれど、しつこく粘着して批判を続ける人間の根底には、醜いエゴの心が渦巻いているに過ぎないのではないか、とわたしは洞察しますね。

 

正しい宗教に対しては、従順こそが美徳であり、不従順は悪徳である。

そう、わたしとしては述べておきたいと思います。