三浦綾子さんの夫である三浦光世さんは、
綾子さんが救急搬送される直前だかの、綾子さんの訴え、疲れたので少し休ませてほしい、という願いを聞いてあげずに、もうちょっと頑張ってご飯を食べないとダメだ、と寝かしてやらなかったことを、その後ずっと悔やんだという。
光世さんほど、病気で苦しんでいる妻を甲斐甲斐しく助けた夫はいないであろう、というほどに献身的に介護した人にして、そこまで悔やんだのである。
いや、そういう人だからこそ、些細な足らざる行為を、してあげられたのにしてあげなかったことを、悔やんでも悔やみきれない行為として、心に残してしまうのだろう。
内村鑑三さんは、愛する妻を失った時に、信仰心を失うほどの絶望感にさいなまれ、神に不満を述べて、なぜ神は彼女を救ってくださらなかったのかと嘆き、疑問を抱いてしまったという。
内村さんに献身的に仕えてくれた妻、その妻を失ったことの喪失感は例えようもないほどの悲しみであり、内村さんもまた、生前、彼女が病で苦しんでいるにも関わらず、ときおり厳しい言葉を投げつけたしまったことを、深く後悔し、自分はなんとひどい言葉を、彼女にぶつけてしまったのかと、悔やんだことを述べている。
三浦光世さんにしても、内村鑑三さんにしても、もし妻がまだ生きていて、あの時はすまなかったと話しかけることが出来たなら、おそらく奥さんは、いいのよそんなこと、いちいち気にすることないわ、と答えてくれたかもしれない。
しかしもはやこの世にはおらず、そばにいて話しかけて答えてくれることが出来ない、死別ののちには、どれほど相手に謝罪したくても、許してくれと謝ろうとも、相手がどのような気持ちでいるのか、答えてくれるのか、許してもらえるのか、まったくわからずに、ただ後悔の念に悶え苦しむしかない状況に置かれてしまう。
愛する人が生きているあいだには、人はそのことに慣れてしまって、当たり前になってしまって、してあげるべきことを十分にしてあげず、やらかしてしまった悪しき言動を後悔もせず、反省もせず、些細なことでいさかいを起こしたり、相手を怒鳴りつけたり罵ったり、そういうことすらやらかしてしまうことがある。
しかして、相手がいるからこそ甘えてしまっている、そういう行為は、あとで後悔しても、やりなおすことが出来ず、相手に謝ろうと思った時には、相手はいないのである。
親孝行をしたい時には親はいない、ということわざもあるように、後になってから、もっと孝行をしておけばよかった。やろうと思えばできたのに、ああいうこともしてやればよかった、あんなことだって出来ただろうに、と悔やんで振り返った時には、もはやそうした愛を与えてあげられる親は、この世にはいないのである。
人間というのは、なんと悲しい、恩知らずの、自己中な生き方をしてしまっているのだろうと思う。
どれほど献身的に、愛情を込めて相手のことを思って生きているつもりであったとしても、本当に心から愛していた場合には、なさざる愛への後悔は、計り知れないほど深くなるに違いないと思う。
繊細な心を持った人ほど、本当は愛が深い人ほど、そうした後悔の念で苦しむことは多いのだと思う。
無頓着で無神経な人は、後悔すらしない。与えなかったことを悔やむことすらしない、ということは、非情であるということだし、それだけ自己中で、自分が与えられていることの感謝を知らぬ人だろう。こういう人は地獄に堕ちるしかあるまい。
地獄に堕ちて、おそらくは数百年後の改心の直前になって初めて、慙愧の涙を流すことになるのかもしれない。そうして初めて、まっとうな人間へと立ち返ることが出来るのだと思う。
自分が死んで、あの世に帰ることになった時、いちばんの悲しみは、してあげられたのに、してあげなかったという、為さざることへの後悔、罪の意識、なのだという。
これは実際に、そうした思いに、生きているあいだに打たれた人には、非常によくわかる話ではないかと思う。
出来得れば、少しでも後悔の無いように、あとで悔やむような、愛する相手を傷つけるような、悲しませるような、そうした自分中心の心から生まれる言動は、厳に慎みたいものだと思う。