自分に甘くではなく、自分にも厳しく〈黄金律〉を適用するべきこと | LEO幸福人生のすすめ

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自分に厳しく、他人には寛容に、あるいは優しい心で接してゆくこと。

偉大な魂の人ほど、これが実践できているものだと思う。

 

これは霊的修行を経ることなくして、ただ本能のままに生きているだけでは、到底おこなえることではない。

ふつうは、自分には甘くなるものだし、他人に優しく出来たとしても、その他人よりも自分の方がやはり優先されるのが、ごく平凡なる人間の姿だと思う。

極端に自己愛が強い人になると、他人には厳しいが、自分には甘い、といダブルスタンダードを平気で生きている。そういう浅ましい姿になることさえある。注意したいものだと思う。

 

真の意味で、自分に厳しく、他人には寛容に優しく、愛を込めて、が実践できていると言えるのは、やはり天使の境涯に至ってこそ、それである、と言うべきだろう。

そこまでの厳しいレベルを求めて、自分を律してゆかねばならないものだと思う。

そういう心構えでいる人であるならば、そう簡単に、自分に自惚れて転落することもなくなってゆくのではないかと、わたしは思う。

謙虚であればこそ、高きを目指して上っている最中にも、自分を戒めることが可能となるのであって、自分に簡単に自惚れてしまっては、いくら途中までは頑張って登っているように見えても、その高さからあっという間に転落してしまうと、戒めるべきなのだ。

 

自己愛、自己保身、自己優先、自己都合、自分勝手、

こうした、自分が自分が、といって、自分を最優先する気持ちから、どれだけ離れられるか。どれだけ、この自分中心の視点から卒業できるか。それが、魂の進歩の鍵なのだと思う。

仏教における無我、キリスト教における無私の愛、無償の愛の大切さ。それはいずれも、自己愛からは遥かに遠い、利他の境地だと思うし、自己愛に偏る心を去っているからこそ、多くの人たちへの全き愛で心が満たされている、そういう境地なのだと思う。

 

自己愛、自己中に関しては、人間誰しもその濃淡に違いはあれども、みな等しく持っているものなのだと思う。

完全に自己愛が無くなる、自分を思う気持ちがゼロである、ということは無いであろうけれども、大切なのは、過度の自己愛、自分中心に偏った立場から、どれほど離れて、自と他を分離して自己を依怙贔屓する心から、どれだけ離れられるか、ということなのだろう。そこに魂修業の要諦がある。

 

自己愛が強い人の特徴をあげれば、

 

自分に甘く、他人には厳しい、というのが、顕著な特徴としてあるかと思う。

同じ〈黄金律〉ゴールデン・ルールを適用するに関しても、そのゴールデン・ルールの適用が、自分に対しては甘い、ということ。

しかるに、そのルールを他の人に対しては厳しく適用する、そういうタイプがいる。

 

同じミスや失敗をしても、自分がした場合には笑って胡麻化すが、他人の場合は厳しく批判する、とか、こういうのも、自分に甘く、他人には厳しい、ということになる。

ルールの適用が公正でなく、自分の場合は甘やかして軽んじているのに、他人が同じ失敗をした場合には否定をする、批判をする、これもまた自己愛ゆえの他者裁きということになると思う。

他人に厳しいなら、自分にも厳しくあるべきだろう。その厳しさの程度が同等であってこそ、公正なルール適用と言える。自分に甘いのなら、他者に対しても同等の甘さで適用してこそ、公平というべきだろう。

自分ばかりを甘やかすのでは、ルールを自分のために悪用しているだけ、と言われても仕方がない。ルールを真の意味では知っておらず、使えていない、と言うべきかもしれない。

 

他人の梁を取り除こうとする前に、自分の梁を先に取り除くべし、というのは、これと同じことを言っているのであるし。

自分自身を、そのルールで厳正に裁くことも出来ていない人には、他の人をその同じルールで裁いたり、批判したりする資格はない、ということだろう。

宇宙の理法に関して、自分がするべきことをする、守るべきことを実際に守れている人にして初めて、他の人に対しても、その法を守ることの大切さを教えることが出来る。諭す力が与えられるし、そこに権威も生まれる、というものなのだ。

 

自分が出来てもいないこと、やれてもいないことでもって、他人を批判したり裁いたりする、ということほど、傍から見ていて見苦しい行動は無いと、わたしには思える。

まず自分がやってみて、それを行なえているかどうか。そのうえでの他者批判であったり、指導であったりするのか、どうか。ここに要諦があるのだと思う。

 

自分がその戒律を守っていないのに、他人に対しては守るべし、というのは、どう考えてもおかしい、単なるダブルスタンダードだと、わたしは思う。

ダブルスタンダードを平気で行なっている人こそは、自己愛者の典型的な行動パターンだと、喝破することが肝要であろう。

他人が遅刻して来たら怒って注意するのに、自分が遅刻した時は笑って胡麻化す、とか。

他人が忘れ物をしたら厳しく叱るくせに、自分が忘れ物をした時は叱られたくないといって開き直る、とか。

こういった、自分の場合は甘やかしてほしい、ルールを緩めて、厳しい叱責などはされたくない、という心。これほど自己愛、自分勝手な甘えた心は無いであろう、と思う。

 

他人にはあれこれ要求をたくさんするくせに、自分でそれを出来ているかと言ったら、出来ていない。

こういうこともまた、自分を棚に上げたダブルスタンダードなのである。

不平不満や批判ばかりをしているわりに、その同じ事柄やテーマに関して、自分自身は棚に上げて知らぬ存ぜぬで、自分は素人だから、だとか、自分はプロではないし、とかいって言い逃れの自己正当化をして、そのくせ文句ばかりを言っている人、これも自己愛・自己中人間の行動パターンに過ぎない、とわたしは洞察するものである。

仏教者なら八正道を実践せよ、戒律を守れ、と他者を批判しながら、自分は仏教徒ではないので、戒律を守る必要もないし、八正道を修行する義務も無い、自由である、などと言う人も、自分を棚に上げたダブルスタンダードの中で生きている、甘えた人間にすぎない、とわたしは思う。

 

こういったダブルスタンダード人間、自分を甘やかすが、他者にはさまざまな要求をする、しかも自分では実践できていないこと、やれてもいないことなのに、あれこれ要求ばかりが多い人というのは、

 

神仏に対しても、その自己愛ゆえの特徴があらわれるものだ、と観察していて、そう思うことがある。

 

神が愛だというのなら、神はこの世の苦しみや不幸をもっと救うために行動すべきのはずだ、といって、神仏に対して要求ばかりをする人がいる。

この人に対して、じゃあ貴方自身は、世の不幸や苦しみを救うために、他の人を救うために、いったい何をやっているんですか? と問うてみたら、おそらく大したことは何もやってやしないであろう。そのくせ、神に要求ばかり、あれこれと文句を言っているのである。

自分は神ではないので、そんな大層なことは出来ない、といって自己正当化の詭弁を弄して、しかして神仏はすべての存在の親なのだから、人間たちの苦しみをすべて救って面倒を見る義務がある、と言っている。

こういうタイプは、ワガママ勝手な子供と同じことで、親は自分を育てる義務がある、頼みもしないのに自分を生んだのだから、と自己正当化して文句を言っているのと変わらない。

親には義務があるが、子供には別に義務はない。未熟な子供は親の保護を受けて当然なのであって、といって、自分自身は甘やかしていて、親に文句を言うタイプと、思考パターンが同じだということに、当人は気づいてすらいないかもしれない。

ワガママ勝手な人間というのは、かように、他人に対しては要求し、神仏に対してもその要求は留まることを知らず、全知全能ならもっと完璧な世界を創れといって要求ばかりしている。

そのくせ、自分はちっぽけな一人の人間にすぎないので、そんなことは出来ないといって、図々しくも甘えた根性で、神の創られた世界で生きているのである。

自分に何かやれることはないか。神仏の願われる世界で、何かひとつでも、世のため人のために貢献できる、愛の人生を生きられないだろうか、とみずからを問うことをしないで、不平不満や注文ばかりを言っている評論家、これほど自己愛が過ぎた態度は無いのではないか、とさえ思う。

 

まずは自分自身が、一個の人間として、どれだけの愛を込めて、神仏のために、他の人のために生きているか、そうした自分自身の生き方こそを、厳しく見つめるべきであろう。

そうしてこそ、自分がいかにちっぽけな自己愛、自分中心の心でもって生きてきてしまったか、現にいまもそのレベルで留まっているかに思い至り、涙を流さずにはいられなくなる。

そこまで行けて、はじめて自分を真に厳しく見つめ得た人、というべきであって、ここを突破してようやくにして、自己愛をわずかながらも離れた高次の境涯への入り口に立てている、ということを知るべきなのだと思う。

 

自己愛の中にいる時、人は自分を甘やかす。そうして、他者に対しては冷めていたり、無関心であったり、そうして神仏に対しても無頓着であり、あれこれ要求ばかりして、神の法に素直に従おう、という心を欠いているものだ。

自分に都合いい部分だけを選り好みして、自分はやっていると自己正当化する者は、もっとも狡猾な人間タイプであって、神仏をあざむかんとする自己愛の極みと言っていいかと思う。

過去の人類史において、宗教関係者の中にときどき悪魔的人物が紛れ込んでいる事例が散見されるけれども、こういうのは、自己愛を克服せずに、ただ衣だけを宗教的な装いのもとにまとって、自身の外面だけを飾って、世間を欺いた者、と言うべきであろう。

もっとも崇高なる宗教を、自分の自己愛をカモフラージュするための装いに利用・悪用することほど、恥知らずの犯罪は無い、と喝破すべきものかと思う。

自分自身の魂の悪しき欠点や、自己愛の酷さを克服する努力もしないで、そのくせ、宗教にやたらと深く関わって、というか、単に外面的に関わって、自分は修行をきちんとしているのだ、という自己欺瞞の中に逃げることほど危険な行為はない、ということも知るべきではないかと思う。

 

宗教に深く携わらんとする者は、自分自身に厳しいと自他ともに言われるようなタイプでないと、本来はいけないのではないかと思う。プロとは、それだけの厳しさを乗り越える覚悟を要求されるはずだからである。