責任を他の誰かのせいにしようとか、神のせいにしようとかいう気持ち | LEO幸福人生のすすめ

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わたしたちの心の中には、絶えず、責任を他の誰かのせいにしようとか、神のせいにしようとかいう気持ちが根強いのである。  
イブもまた神に叱られて、へびがだましたのだと、へびに責任をおしつけてしまった。アダムもイブも、一言も、「悪うございました、お許しください」 と言ってはいない。  
もし、ここで、二人が手をついて神の前にあやまったなら、どうであろう。必ず神は許してくださったにちがいない。悔い改めない者を、神も許すことはできないという。


他人のせいにしたり、神さまのせいにしたり、

そうした責任転嫁の気持ちが強く、言い逃れをしたり、胡麻化したりといった生き方をしていないだろうか?

アダムとイブの話を引いてきて、イブもアダムも、自己責任を欠いている、と三浦さんは指摘している。鋭い指摘だと思う。

知恵の木の実を食べたことを、神さまから咎められると、アダムは、イブが勧めたので食べたと言い、イブは、ヘビに騙されたのだとヘビのせいにし、いずれも自分の間違いだったと認めることはせずに、他者に責任を転嫁している。

自分の責任だという自覚が無い以上、反省もないし、悔い改める心も無いわけで、それこそがアダムのあやまちであり、イブのあやまちではないか、という考察は、鋭くも真実を見抜いた言葉だと思う。

このとき素直に、みずからの過ちを認めて、神さまに謝っていたら、どうだったのだろう。
悔い改める気持ちをもって、きちんと謝罪して、もうしわけありませんでしたと心からの反省の思いを、神さまの前で吐露していたら、どうだったのだろう?

しかし、二人とも、あやまることもなく、悔い改める気持ちもなく、責任転嫁の言い訳をしたのでした。

悔い改めなくば、許されることはない。神の許しも得られない。

これはあの世における、天国と地獄の世界分けを見ても、確かにそうなっていることですね。
悔い改めがなくとも、どんな人でも神は許してくださる、救ってくださる、というのは間違いですね。霊的世界の実相を知ってみれば――地獄の存在と、地獄で苦しむ不成仏霊たちの姿を見れば――そんな安易な許しと救いの世界になどはなっていないことがわかります。

神さまが人間に与えた自由と責任の法則のもとに、許しの前には、反省と悔い改めが要るのです。

 

 

 

わたしは、アダムとイブが謝罪しなかったことに、人間の罪の根深さを改めて思わずにはいられない。  
わたしたちも、日常の生活において謝罪することの実に少ないものである。神に対しては 勿論 のこと、人にもあやまることがはなはだ少ない。自分の過失に気づかぬのではない。気づいてもあやまらない。当然、自分があやまらねばならぬと知っていてもあやまらない。


アダムとイブの話の解釈は、神と人間の関係を象徴的に表していて、深く鋭いですが、

日常生活のレベルで考えてみても、わたしたちはアダムやイブと同じく、なかなか自分の非を認めないし、素直に謝る、反省する、ということをしないでいますね。
そうして、他の人に責任転嫁をしたり、自分が注意されることから逃れて、無事に過ごそうとしていたりする。

あやまらない。自分の非を知っていたとしても、あやまらずに、なんとか誤魔化せないか、しらばっくれられないか、といって逃げ延びようとしたりもする。

ここには、罪の自覚と反省が無いし、罪を知っていても知らないふりをして誤魔化そうとする心には、他者をあざむくだけではなく、みずからの良心を誤魔化し、神さまの目をもくらまそうとの傲慢さがある。
真実の前に謙虚である、誠実である、などとは、とても言えない生き方をしていたりする。

 

 

 

 

 

 

「罪を罪と感じない」──これこそ、本当の罪ではないかとわたしは思った。この良心のにぶさに気づいた時、わたしは洗礼を受けた。


過ちて改めざる、これを過ちという。という孔子の言葉もありますが、

過ちを犯しておりながら、そのことの罪を認めない、自分の責任を潔く認めない。それでいて、言い訳をしたり、責任転嫁をしたり、胡麻化そうとしたりして、罪から発生するところの罰から逃れようとする。

そういう生き方を選んだ場合に、霊的真理の目から見たら、どのような人生の判定がなされるのか。

良心のにぶさ、という表現を三浦綾子さんはしていますが、
良心というのは、心の奥にあって人を導く、神さまが与えたところの善性、仏性だとするのなら、その善性、仏性の声が聞こえないほどに、自分の良き心に鈍感になってしまった人の姿がここにあるのではないか。

罪を罪と感じない。

そんなことはみんなやっていることさ。別に反省する必要もないし、悔い改めるようなことでもない。
別に宗教に所属しているわけでもないのだから自分は、といって、悔い改めなどという心の反省そのものを、自分とはまったく無縁のことだと思いあがっていたりするのではないか。

 

 

 

 

 

 

罪を犯しながら、罪と認めない。これが、本当にゆるしがたい、確定的な罪なのではあるまいか。

 

 

 

 

 

 

「人の言葉よりも、神の言葉に従おう」と言えるだけの謙遜さも強さも、一般大衆の側にはない。それどころか、 「わたしは無神論者ですよ」 「神? 神なんて、前世紀の遺物ですよ」 「人間が月の世界に行く時代ですよ。人間が神じゃないんですか」  こんな言葉さえ人々は軽薄に語り、無思想に信じている。

 

 


現代人の傲慢。

神の存在を忘れ、否定し、人間の考えと行動だけで、この世界を成立させることが出来ると、思い上がっている。

自分の人生は、この生命は、別に神のことなど考えずとも、宗教などには無縁の人生であろうとも、まっとうできる、と勘違いしている。

そういう考えになってしまうと、自分より偉い立場の人間の言葉は聞くかもしれないが、神の言葉に素直に従おう、などという気持ちはまるで無くなってしまうかもしれません。


生身の人間の言葉には、イヤイヤながらでも従っていたりするのかもしれない。たとえば理不尽な命令であっても、仕事上の立場ゆえに仕方なく従う、とかね。

こういう生き方しかしらないと、従順、ということを、非常に嫌な、自分を強制的に従わせるような、そうしたイヤな強制力のように思ってしまうのかもしれませんね。

その立場からして、神への従順、という言葉を聞くと、強制だと感じて反発するのかもしれませんが、これは、従順ということの真なる意味を知らない、理解の足らない人の反発芯にしか過ぎないかもしれませんね。

神は自由意志を人間に与え、その自由なる意志によって、みずから神の命に素直にしたがって、従順に生きてゆく人間の、その素直なる生き方の美しさが、こういう人にはわかっていないのかも。

ただ、それだけのことなのかもしれません。

従順で素直に生きられることの大切さ。そうした気持ちの大切さを、あらためて考え直す必要が、現代人にはあるのでしょう。