このお話は、私が中学生の時の恋のお話です。
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冬の海・天使のハシゴ
第四話「ラインが繋ぐ夜と夜」
バタバタバタ
掃除を手早く終わらせた私は、三年生の教室へ一目散に走っていた。
衣替えが終わったばかりの六月の校舎は、白い半袖シャツが初夏の光を照り返して気持ちまで明るく開放的にさせた。
三年四組。
表札がかかる後ろ入り口から教室内を見渡すと、まだ掃除の真っ最中で、机が端にぎゅっと押し寄せられていた。
ある影をキョロキョロ探す私に、
「沢ちゃん、今日からトイレ掃除やで」
面倒そうにホウキを操る手を止めて、野村先輩が私に言った。
彼は同じテニス部の先輩で、沢村先輩とはクラスメイトだった。かけたメガネを手の甲でグッといじるのが癖で、一年生や二年生が隠れて彼の物真似をする時には、いつもその癖を真似た。
「あ、ありがとうございます」
私がお礼を言う間にも、彼はグッとメガネをいじった。
隣の教室を挟んだ角にある男子トイレの前に着くと、私はそっと中を覗きこんだ。
ツンと鼻を刺す洗剤の匂いと、ビチャビチャ水跳ね音がこだますトイレの中、沢村先輩は向こう向きのウンコ座りでホースを片手に水を撒いていた。
明かり取り窓から差し込む午後の強い光が跳ねる水をピカピカきらめかせていた。
ただひたすらにボーっと水を撒き続ける先輩が、なかなか私が立っていることに気がつかないので、
「ぎゃー!先輩!」
とわざと大きな声を出した。
「うお!!」
ビクッと振り向いた先輩が持っているホースの先端が、私がいる入り口の方へ向いて、飛沫が廊下まで飛んだ。
「あーあー!」
引き続き大声をあげて、沢村先輩はすぐにキュッと蛇口を締めた。
「先輩、廊下濡れた」
「お前が悪いんやん!」
「そうやんなー」
私は手近に立てかけてあったモップで、廊下に飛んだ水を拭いた。
「お前毎日飽きんとよく来るなぁ」
沢村先輩はホースをくるくる巻き取りながら言った。
「うん。先輩何か話して」
「そうやなー。……何の話しよっかなー」
「なんでもいいから早く早く!」
後片付けを終えた先輩のベルトをぐいぐい引っ張った。
「引っ張るな引っ張るな」
私のされるがままに先輩は笑った。
先輩の話を聞くのが大好きだった。
いろんなことをよく知っていて、宇宙のことや人間の細胞のこと、戦国時代やもっとたくさんのこと。私が知らない・興味すら持ったことのない分野の話をたくさんしてくれた。
私は朝練の迎えや放課後の部活動だけでは飽きたらず、暇さえあれば沢村先輩に会いに行き、金魚のフンのようについてまわった。
もう6月も半ばに差し掛かろうとしていた。
練習の後片付けを終える頃には日はとうに暮れていた。
私が住む団地の裏山に隣接した小さな公園。その隅には電話ボックスがあった。
公園の敷地内に足を踏み入れ、砂場を渡りながら私はその電話ボックスを見ていた。園灯に照らされ平行四辺形の影を作る鉄棒の向こう、青白く寂しそうにポツンとある電話ボックスを。
ちょっとだけ先輩に電話してみよっかな…
そう思いついた日から、その考えがずっと頭を離れないようになった。
先輩たちは一年生より先に帰るので、電話をすればきっと家にいるはずだ。家族がいる自宅から電話をするのは何だか抵抗があった。
ちょっとだけ電話してみたいなー
でもなんか電話は緊張するしなー
面と向かいあっている時は、ギャーギャー何でも言えるのに、一本電話をするかどうかだけで、私は怖じ気づいてしまっていた。変なところが恥知らずで、変なところが臆病だった。
何日か戸惑った後。
私は意を決して電話ボックスの扉を引いた。
先輩の家族が出たら、間違えましたと電話を切ろうと決心し、カバンをごそごそ探って、部の連絡網のプリントを取り出した。
「沢村一志」の名前の下にある番号を確認し、ガチョンと緑色の重い受話器を取り、耳に当てた。
ポケットから小銭をジャラジャラ握り出し、10円玉を数枚カシャンカシャン投入する。
プーッと番号を押すのを急かすような待機音が聞こえ、私の手や足先からジーンと血の気が引いていくのがわかった。心臓の音がドカンドカン聞こえる。
私はいよいよダイヤルを押す。あまり手応えのないプッシュボタンを、プリントをギュッと握りしめながらゆっくりと押していった。
すべての番号を押し終えると、プツプツとかすかな接続音が聞こえ、一瞬の間の後にプルルルルと呼び出し音が鳴り始める。
一回
二回
五回目を数える頃にはそのまま切ってしまおうかと思うほど、緊張はピークに達した。
その時。
「はい」
聞き慣れているようで、どこか沢村先輩とは違うような男性の声がした。
「あの……安藤ですが一志さんいますか?」
「安藤?」
「はい」
沢村先輩だった。
「どしたん?」
「いえ、別に…」
「ん?家か?」
「いえ、近くの電話ボックスです」
「ふーん…どうでもいいけど何で敬語なん?」
先輩の声は受話器ごしに聞くと、いつもより少し低く、そしていつもより少し優しく聞こえた。
「ほんまや!緊張して敬語出た!」
先輩の言葉に少し緊張が解けた私は、わざと大声を出した。
「今帰りか?」
「うん」
「なんで電話ボックスから電話してるん?」
「わからへん。なんかちょっと前から電話ボックスの前通るたんびに電話しよっかなどうしよっかなって思ってたから」
「電話したら良かったやん」
「なんか出来ひんかった」
「おかしいやつやなー」
「おかしいなぁ。あ、先輩なにしてた?」
「帰ってきてから歌聴いてボーっとしてた」
「なんの歌聴いてたん?」
かすかに先輩の声の後ろで、何かの歌が流れているのが聞こえていた。
「ちょっと待ちや。この歌」
先輩は受話器をスピーカーの方にかざしたのか、女性シンガーの英語の歌がはっきり聞こえた。
「うーん、わからん。英語わからん」
言ったけれど、先輩はまだ受話器から耳を離しているのか返事がなかった。
「先輩ーもしもしー」
「あ、もしもし?聞こえた?」
「うん。でも英語の歌わからん」
「そうか」
私のいる電話ボックスと、先輩のいる部屋が繋がった。別々に過ごす夜と夜がラインで繋がる。違う場所で違うものを見ながら、同じ夜がカチコチ刻む音を一緒に聞く。
「あ、雨降ってきた」
ボックスのガラスに雨の滴がポツリポツリと落ちてきて、流れ星のように斜めにスーッ・スーッとその軌跡を残しはじめた。
「そうなん?本降りになる前に早よ帰り」
先輩が言うと、
ビー
あと少しで電話が切れることを知らせるブザーが鳴った。
私は握っていた小銭から、百円玉を投入口に入れた。
「雨宿りして帰るからいい。今百円入れたから、なんとあと三十分も話せる!」
雨宿りも何も、家のすぐ裏だったので、走ればすぐに帰ることが出来たけれど、私はまだ話をしていたかった。
「三十分かー。何の話して欲しい?」
先輩の言葉に、
「うーん…何がいいかなぁ……」
雨が、土やアスファルト・ブランコも木々も、すべてをどんどん濡らしていく。
天からの水が潤す世界は、家の灯りや園灯、存在するすべての夜の光をモザイクに砕いて一面宝石を散らしたようだった。
「もう梅雨かなー」
「まだ早いんちゃうか?」
雨の降り始めは懐かしい匂いがする。どこかに帰れるような。何かに呼ばれているような。
「うーん……何の話しよっかなー」
沢村先輩のその言葉が大好きだった。私が何か話してとせがむと、いつも見せる少し困ったような、けれどどこかからとっておきのお話をたぐり寄せるような穏やかな笑顔。
電話越しでもその笑顔が私の胸いっぱいに広がった。ひだまりの窓辺でまどろむような安心感。
まだ子供だった私なのに、もっと・うんと子供になれるような気がした。
「よし、今日は怖い話したろか!」
「えー、ほんま?うんうん!」
「こんな雨の夜にな……」
「ぎゃー!」
いろんな人が、いろんな番号を押して、いろんな人と繋いできた昼と昼・夜と夜。
雨とガラスに隔絶された電話ボックスは、ラインが繋ぐ先輩と私の小さな世界だった。
それは遠くから見ると、夜の寂しい公園の風景の中、ぽつんと幸せそうに、初夏の空のような水色に映っていただろうか。私はその中で、楽しそうに笑っていただろうか。
第五話「花の人」 へ続く
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