このお話は、私が中学生時代の時の恋のお話です。(ちなみに高校生時代の恋バナはこちら )
相手の男性に配慮して、名前や細かい設定は変えてありますが、私が実際に経験したノンフィクションです。
冬の海・天使のハシゴ
第一話「小さな魂・ふたつ」
曇り空から地上への贈り物のように降り注ぐ筋上の光・光芒。
それは「天使のハシゴ」とも呼ばれるらしい。
ごく稀にそんな空に遭遇するたび、私はあの横顔。
大人びているように見えてまだ子供だった彼の横顔を思い出す。
彼は私よりも二歳年上だった。
あれは真冬の夕方だった。彼と私は耳をかすめていく海風のヒュルヒュルいう音の中、凍てついた海岸にいた。
頬も耳たぶも指先もつま先も、ちぎれそうなほどにじんと感覚がなかった。
空も海も砂浜も。全てが鈍色一色の世界に、厚い雲を割り・ふと漏れ降りた天使のハシゴ。光が降りた海面は、金紙銀紙を何億枚もくしゃくしゃにつぶしたように煌めいて揺れていた。
「早く……大人になりたいなぁ……」
そうつぶやいた彼を、
「え?先輩何て?!」
振り向いた私は、十三歳だった。
冬の荒れた海と光のハシゴが降りる海の境界線に、十五歳と十三歳の魂が・いた。
風に吹かれ吹かれて。
まだたくさんのことを知らな過ぎて、大きな流れに木の葉のように巻かれることしかできなかった小さな魂が・ふたつ。
夢の世界へ続くような遥かなハシゴを前に、私たちは確かに並んで立っていた。
あのハシゴをのぼれば。
雲の上の空には甘い金の夕暮れが、地平の際を桃に染めながらずっと広がっていたのだろうか。
どうして薄れていくのだろう。記憶は。十三歳の私はあんなに笑っていたのに。
どうして離れていくのだろう。人は。十五歳の先輩はあんなに近くにいたのに。
いつから私は、先輩と一緒にいた幸せな時間を少しずつ思い出さなくなっていったのだろう。
取り残されたように感じていたけれど、大切な時間を取り残していくのはいつも自分だ。
どんどん取り残しながら・進みながら、私はまた新しい煌めきに魅せられてゆく。
それはあの日、冬の海へ向かう電車が走り続けた一本の線路のように、未来の私にも・今の私にも・十三歳の私にも続いていることなのだ。
祈ることはいつだってできる。沢村先輩の幸せを。そう今だって、これからだってずっとずっと。
これは、箱庭のように小さく閉じられた「中学一年」という世界での、「中学一年の私」と「中学三年の沢村先輩」の恋の話だ。
く・くさい・・・・
窓の手すりに干されたねずみ色のボロボロの雑巾が、牛乳でも吸ったのかひどい匂いを当たりに撒き散らしていた。その臭気にあてられ、私はますますげんなりしていた。
もうすぐ授業も終わってしまう六限目。カチカチ秒針を動かす時計を、終わるな終わるな・私は念を込めるように睨み付けていた。
授業が終わったら、部の練習がはじまってしまう……。
そんな私の願いも虚しく、チャイムは無情に鳴り響き、ガタガタ椅子を引く音やカバンを取り出す音が一斉にしゃべりだすクラスメイトの波の中、大きく響いた。
終礼に入ってきた担任が次の日の連絡事項を手早く話すのを上の空で聞きながら、出来るだけノロノロと帰り支度をした。
起立!礼!
その号令に従ってダラダラと頭を下げると、私はまたズドンと机に突っ伏した。
あーいややなぁ部活行くんいややなぁ……
開け放たれた窓からは緑が萌える気配や香りを乗せた旺盛な風が入ってきて、邪魔者のように干された牛乳雑巾をチラチラ揺らした。
「おーい、蒼!行くぞ!早よ行かな怒られるぞ!」
同じクラスで同じ部のみっ君とシゲが、教室後方のドアから急かすように私を呼んだ。
「うん」
しぶしぶ返事をして、私は立ち上がった。
中学入学と同時に、私は硬式テニス部に入部した。
足だけは速かったものの、球技になるとからきしダメで、サッカー・バスケ・バレーなど名前を聞くだけで眩暈がしそうだった。
けれど、その中でもラケットを使用するテニスなら、なんとか自分の手に負えそうな気がしたのだ。
それに、『テニス』という単語に含まれるどこか女性的な響きが入部の決め手になった。
わずかに女の子的要素を残しつつ、「男女(オトコオンナ)!」とからかわれることのないよう、体育会系に入部する。
自分の本音と、周りへの建前。両方とも上手に立てることができた!と、私の中での計算はばっちりだった。
「女の子か思った」
「ほんまやー」
「ちっちゃ!!」
「腹話術の人形みたいやなー」
部の練習にはじめて参加した日、テニスコートに新入部員一年生がずらり並ばされて執り行われた自己紹介の場で、私は早速先輩たちの洗礼を受けた。
「安藤蒼です! よろしくお願いします!」
もっと大きな声で!と、叱られ続ける同輩の挨拶で学習した私の出す大声は、まだ甲高いソプラノだった。
身長も百四十センチに満たず、私より軒並み二十~三十㎝以上は背の高い先輩たちがはやしたてる言葉の数々が、緊張で強ばった私の体にガンガンぶつかった。
「いやーほんま女の子みたいやなー。ついてこれるかなー? 練習。案外キツイで?」
一人の先輩が心配そうにボソッと私に聞いた。
私は当時『女の子みたいだ』とよく言われた。
第二次性徴前で体も細く・背も小さくて髪も長く、顔の作りも男らしくなかった。
自分の内面の「女性」には当然気づいていたけれど、だからこそ「女みたいだ」と言われると反射的に強がる癖がついていた。
「大丈夫です!」
答える私は、その先輩を見上げる形でふくれっつらだったろう。生意気な後輩の言葉に、
「じゃあええけど」
先輩はニコニコ笑った。その人は背がずっとずっと高くて、肩幅もとても広くて、私からすればすでに“大人”に見えた。
「そうか? ……それにしてもホンマお前……なんかボタンあるんちゃうか?ON OFFの」
と、別の先輩が私の後頭部の髪をくしゃくしゃと探った。
あーあ。
自分の計算しつくしたはずの計画が……
またオトコだのオンナだのからかわれるんやろうなー……
先輩たちにへらへら愛想笑いしながら、
め、面倒くさい……
と、思った。
先輩の言葉通り、練習は本当にキツかった。
朝練で一日が始まり、放課後も基礎練習に明け暮れる。
私のイメージでは、すぐにラケットを握らせてもらえて、打ち方を教えてもらえて。と、夏までには爽やかにラケットを自由自在に操るはずだった。
けれど実際は、来る日も来る日も走り込み・声出し・ボール拾いの毎日で、ラケットのラの字も出てこなかった。
「疲れたー」
その日も練習の後片付けを終え、私たち一年生は部室にボールを運んだ。
先輩たちは先に帰ったのか、部室はもぬけの殻だった。
カゴふたついっぱいに入ったボールをしまい、
「さー帰ろ!」
と、ようやく皆のびのびした表情になった時。
ポケットに手を突っ込んだ姿勢で、
「あれ?あれ?」
と、私は慌てて辺りを見渡した。
「どしたん?」
みっ君が、ん?という感じで聞いた。
「コートの鍵が無い」
「うそや!」
テニスコートの戸締りも一年生が責任を持ってやることになっていた。その日は私の当番で、鍵を失したとなると、どれだけ先生や先輩に怒られるだろうか。想像するだけで目の前が真っ暗になった。
「ちょっとコート見てくる! 先に帰ってて!」
私は皆に言い残すと、つい先ほど後にしたコートめがけて駆け戻った。
もううっすらと目隠しをするように闇は染みはじめていた。空は白桃色の夕暮れがずいぶん西に押され、代わりに藍色がゆっくりとその翼を夜に広げようとしていた。
生徒が下校して沈黙の大きな塊になった校舎が、窓ガラスに空が描く桃色の最後のひと絞りを映していた。
そんな静止画のような風景の中を、私はバタバタ走りに走った。
第二グラウンドと称された場所にあるテニスコートへ行くには、裏門から一度公道へ出て、道路を渡らなければならない。
裏門の通用口をダッシュでくぐり抜け、ササッと信号無視をし、コートにたどり着く頃には、息がぜいぜいあがっていた。
ひっついて閉じてしまいそうなカラカラの喉で、苦しく唾を飲み込みながら入り口のドアに近づくと、鍵穴に鍵が差したままになっていた。
「あった…! 良かったー……はぁ…」
私は思わず大声を出して、その場にペタンとへたりこんでしまった。同時に、
ザッ
靴が地面を踏みしめる音が聞こえた。
あれ?誰かおるん?
はぁはぁあがった息を整えながら、その音の方に視線をやると、薄闇の中・フェンスにぐるりと囲まれたコートから、影絵のようなシルエットが私の方へ歩み寄ってくるのが見えた。
「鍵差さったままやったで」
声の主は、私の入部自己紹介の時に、
『女の子みたいやけど、練習ついてこれるかなー』
と、私に聞いた三年の先輩だった。
「すいません!」
私は立ち上がって謝りながら、記憶を総動員して、彼の名前を思い出そう思い出そうとした。
沢…沢……山?
北?
西?
なんやったっけ……
沢なんとか先輩のはずやけど……
まだ入部したばかりの私は余裕がなく、キャプテンと副キャプテン以外の先輩の名前をほとんど覚えていなかった。大きな体・太い声の先輩たちに近づくことさえ、怖かった。
灯りだした道路の街灯が、まだ夜に沈みきらない曖昧な時間の流れの中に薄ぼんやりと白の粒子を放っていた。
私の前に立った沢なんとか先輩の顔は、どんどん濃くなる闇ではっきり見えなかったけれど、少しだけ微笑んでいた・と思う。
出会ったその春、私は十二歳・先輩は十四歳だった。
第二話「生まれたての朝・風・キラキラ」 へ続く
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