あると思っていたものがない | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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人はどうしたら幸せになれるか。なぜ苦しまなければならないのか。お金や地位や名誉をどれだけ手に入れたかを問題にするよりも、自分がどうしたら幸せになれるかを問題にして生きてみませんか。

仏教を求めてゆくと、今まであると思っていたことが実はないのだと知らされてゆきます。

たとえ家族であっても、私たちは一緒に暮らしているから、家族なんだと思っていますが、それは自分が思っているだけで、実はそうではないということが知らされてゆきます。

つまり、一緒に暮らしているだけで、それだけでは家族ではないのだと知らされてくるのです。

家族というものは、相手との間に絆があり、その絆を深めてゆくことでできてゆきます。

でも、私たちはその絆を深めてゆこうとせず、相手と仲良くしてゆこうと努力することなく、ただ一緒にいるだけになっています。

そうやってただ時間が過ぎてゆき、環境が変わったら離れる。そういう関係なのです。

でも、仏教を聞いてゆくと、本当にこの人との間に絆があるのかが問題になってゆきます。そして、せっかく一緒に住んでいるのだから、絆を深めてゆきたいと思うようになります。

それはまず相手がどんな態度を取ってきたとしても、切らないことから始まります。そして、自分が感情を乱してしまった時には、自分から謝る。そうすることによって、相手は次第に心を開き、素の自分を見せてくれるようになります。

この素の自分を見せると私はぞんざいに扱われたように感じます。だから、何でこんな目に遭わなければならないのかと嘆きたくもなるのですが、それでも、相手が心を開いてくれたことを喜び、受け入れてあげると、相手は自分と一緒にいたいと思うようになります。

普通は人と一緒にいると気を遣うものですが、気を遣うことなく、一緒にいてくれるようになります。

そうやって、少しづつ絆が深まってゆきます。

人との関係は努力の結晶。

努力もしないのに、絆が深まることはありません。歳を取って孤独になってしまうのは、若い時に絆を深めてゆく努力をしていなかったからです。

ないものはない。それが明らかになるのが老後であり、そこで後悔しても遅いのですね。