懈慢 | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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人はどうしたら幸せになれるか。なぜ苦しまなければならないのか。お金や地位や名誉をどれだけ手に入れたかを問題にするよりも、自分がどうしたら幸せになれるかを問題にして生きてみませんか。

阿弥陀仏の本願では、阿弥陀仏はすべての人を浄土へ必ず生まれさせると誓われています。しかし、私たちは煩悩がある為に、浄土とはどんな世界がと聞いても、そこに往きたいとは思いません。

だから、煩悩の幸せしか知らない私たちの為に、作られたのが化土です。この化土こそ、懈慢という世界なのです。

懈慢とは、懈怠と驕慢が満たされる世界のことです。懈怠とは、楽ができる世界のことです。私たちは浄土へ往ったならば、楽ができると思っています。それはこの世は偉い人ほど、他人を動かして自分は楽をしているからです。

そして、他人の為に自分がわざわざ動かないといけないとなんで自分はこんな苦労をしなければならないのかと不満の心が起きます。そして、みんな動かないのに、自分ばっかり動かなければならないことに怒りさえも覚えます。

そんな私が浄土へ往ったら、自分がみんなの為に一番動くことができるようになるよと言っても、そんな世界に往きたいとは思いません。

だから、浄土へと往ったら、みんなが自分の為に動いてくれる。そして、みんなが自分のことを大事にしてくれる世界なんだと言うことで、そんな世界なら往きたいと思わせるのです。

次に驕慢とは、自分が上に立ちたい。そして、みんなから大事にされたいという心です。私たちは価値のある人はみんなから大事にされると思っています。だから、みんなから大事にされたいから、価値のある人間になろうと求めます。しかし、現実は価値のある人になったら、それだけ責任も重くなり、苦労しなければならなくなります。このようになると懈怠の心を持っている私たちは、せっかく上に立ったのに、どうして自分が苦労しなければねらないのかと不満を持ちます。

そう、私たちは価値のある人間になってみんなから大事にされたいけど、自分は苦労したくない、楽をしたいと思っています。

しかし、現実は楽をしたいと思って、楽をすると、他人は自分のことを価値のある人間として見てくれないし、価値のある人間になって大事にされたいと思ったならば、楽はできなくなる。

だから、懈怠と驕慢を同時に満たすことはできません。

そんな世界は阿弥陀仏の浄土しかないと思うので、阿弥陀仏は化土を作られ、あなたの望みを叶えてくれる世界がありますよと勧められたのです。

じゃあ、化土とはどこにあるのか?

それは本当の浄土を求めている人のまわりにできるものが化土なのです。浄土とは、相手に懈慢という世界を与えてあげたいと思って動いてゆきます。

つまり、相手に楽をさせながら、その相手のことを価値のある人間と見て、大事にしてくれます。

だから、浄土を目指している人のまわりには化土ができるのです。

しかし、現実は浄土を目指す人はほとんどいません。だから、化土に往くことができる人も少ないのです。

だからこそ、みんな化土を求めているからこそ、浄土へと往きたいと思う人を一人でも増やしてゆかなければならないのです。