仏教の言葉に雑毒の善という言葉があります。雑毒とは、煩悩の混じった善のことであり、この煩悩とは、勝他(馬鹿にされたくない、上に立ちたい)、名聞(価値のある存在として認められたい)利養(立場が上になるほど楽ができる)のことです。
昔、ある会で雑毒の善でも善は善だから、やれば善果が来るし、救いに近づくからやった方がいいと教えられました。
でも、最近になって、雑毒の善は果たして善なのだろうかという思いになりました。
まず、七仏通戒偈でも、諸の悪作すこと莫かれ、諸の善を行い奉るべし、自ずから其の意を浄らかにすべし、是れ諸仏の教えなりと教えられ、悪をやめて善をすることで、煩悩から離れ、心を清浄にしてゆくのが仏教であると教えられています。
だから、煩悩から離れたいと思って善に励むのが仏教であるのに、雑毒の善とは、煩悩を満たす為に善をやっている。
確かに形は善をやっているかも知れないが、その心の向きは仏教で教えられる善とは、真逆。果たしてこれが善と言えるのだろうか。
それとも形では善をしているので、心が間違っていても善と言えるのか。
そんな善を虚仮の善と言われ、こんな善では、たとえ髪に付いた火をもみ消すように善に励んだとしても浄土に往生することはできないと教えられています。
だから、雑毒の善は悪なのだと思います。
それを善だと思って、雑毒の善でも励めば、宿善になるのだと思ってやっている会の人たちを思うと、極楽に向かって進むどころか、地獄に向かって進んでいると思うと、何の為に仏法を聞いているのだろうと思います。
悪を善だと教える団体はもはや仏教ではない外道の団体なんだと思わずにおれません。
何とか分かってもらえたらと念ぜずにはおれません。