よく宗教に多額の布施をしたという話を聞きますが、それは組織の為にお金を施しているからだと思います。
組織の為に施しをしたら、そのお金を受け取った人と使う人が異なる。だから、受け取った人は、施しをした人を言葉で褒めるだけで、大事にしなければならないと思いません。その人は組織の為に多額の布施をしたのだから、功徳を積んだのだから、幸せになれますよと褒めるだけです。
そして、使う人は、施した人がどんな気持ちで施したか分からないから、お金を心で見ることなく金額でしか見ない。だから、お金があったら、あったで、好きなことにいくらでも使える。
しかも、それがその宗教を広める為なら、どんなにたくさんのお金がかかったとしても、平気で使える。だから、どんなにお金があっても足りなくなる。そして、足りなくなったら、また、集めればいいと信者に布施を要求してゆく。
そして、信者は組織の為に施すことは善いことなんだと思って、あればあるだけ出してしまうのです。
仏教の布施は、純粋にこの人の生活を支える為に施すもの。だから、お布施とは、生きてゆく為にしか使わない。生きる為に必要なお金は限られている。だから、必要なお金が得られたら、それ以上は必要はなくなる。
また、布施とは、この人の生活の為に施すものだから、講師に対して信者が付き、その人の生活を支える為に施してゆく。
受け取った講師は施してくれた人の顔が見えるから、その人のことを大事にするし、自分が生活できるのも、この人のおかげだと思うから、受け取ったお金を大事に使ってゆく。
講師の生活の為以外のものまで、献金を求めてゆくから、お金が無駄に使われ、いくらあってもお金が足りなくなる。
そして、宗教と言えば、お金を取られるものだという悪い評判が立ってしまうのです。