人間の中には自分の考えは絶対的に正しい所に立って、物事を見ている心があります。
そして、自分の常識から見て、相手が悪ならば、その人がどうしてそんな悪をしてしまったのか考えることなく、高い所に立って、こんなことをしてはならないとか、こんなことはダメだと批判しています。
仏教ではこの心を自力と言います。
私たちはこの自力によって、いつも高い所に立って、物事をこれは善い、これは悪いと判断しています。
じゃあ、自分は批判していることを自分自身はやらないのかというと、体でこそやらなくても、心では同じようなことを考えています。
生きている時は正しい所に立っているので、どんなに他人を非難しても、その刃は自分に向かうことはありませんが、臨終になり我が崩れると、他人に向いていた刃が今度は自分に向き、自分の悪を攻撃し始めます。
自分の悪ばかりが見え、こんな自分なんていなくなった方がいいと自分の存在を消そうとします。
この苦しみは激しいものであり、自分で自分の悪を許さない限り、苦しみは続く。
でも、自分の悪を否定するのは、高い所に居続けたいからであり、自力がある限り、自分の悪を許すことができず、苦しみ続けることになるのです。
正しい所に立ちたいからこそ、悪を否定する。
悪を否定するから地獄になる。
でも、苦しみながらも、正しい所に立ち続ける。その為に果てしなく苦しみ続けなければならないのです。
正しい所に立っている限り、私たちひ苦しみと隣り合わせで生きてゆかなければならないのですね。