存在価値で大事なことは謝ること | 幸せのこころとかたち上田祥広のブログ

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人はどうしたら幸せになれるか。なぜ苦しまなければならないのか。お金や地位や名誉をどれだけ手に入れたかを問題にするよりも、自分がどうしたら幸せになれるかを問題にして生きてみませんか。

仏教では、存在価値を問題にされる。存在価値とは、存在と価値ということ。存在とは、他人から見てもらうことによって自分はここに存在しているのだと感じた時、安心するということ。私たちは自分を感じた時に安心する。自分がここに存在しても自分を感じられないと不安になり、まわりの人を傷つけてでも、自分を見てもらおうとする。

でも、そんなことをすると、他人は自分のことを見捨ててきそうに思うから、普通はしません。でも、相手に対していい顔ができなくなり、怒りを起こしたりして、見せたくない自分の姿を見せてしまうと、こんな自分の姿を見せてしまったから、自分のことを見捨ててくるのではないかと疑いが起きる。

そうすると見捨ててくる相手に対して、いい顔をすることはできなくなり、どうせ見捨ててくるならと思うと、相手を傷つけるようなことを平気でするようになる。それは傷つけた方が相手は自分の方を見てくれるから。だから、あからさまに酷いことは言わなくても、自分の言動で相手が傷ついてもいいと思って行動するようになる。そこにはどうせあなたは私を見捨てるのでしょうという思いがあるからです。

本当は見捨てられたくない筈なのに、一度悪い顔を出してしまうと、こんな自分を相手は見捨てるのではないかと思ってしまう。

こんな時に自分から近づき、謝ることができたら、どれだけ心が楽になるのに…。

謝ることで、相手が許してくれたら、この見捨てられるのではないかという不安は消える。また見捨てられないと思って人間関係を築くことができる。

私たちは相手が見捨てないと思うからこそ、仲良くしようと思って優しい態度を見せることができる。しかし、それは相手が自分のことを見捨てないと思っている間のことだけ。一度見捨てると思ったならば、もう優しくはなれない。今まで相手のことを傷つけないようにしていた人も、平気で傷つけるようになる。そこに相手が悪いだの色々な理由を付けて、相手を傷つけることを正当化する。何故なら傷つけた方が相手は自分のことを見てくれるからです。見てくれたら自分を感じて安心できる。そうやって見捨ててくると思う相手には、傷つけることを何とも思わずに傷つけてしまう。だから、本当に見捨てられる。

私たちが他人から見捨てられるのは、それは見捨てられる前に見捨てられると思っているから。見捨てられると思うと今だけでも相手の目を自分に向けようとして平気で傷つけてしまうからです。

見捨てられると思った時には謝らなければならない。それは自分が悪いとか、悪くないとかは関係ない。また、私は見捨てられないのだと安心したいから謝るのです。謝って相手が許してくれたら、また見捨てられない関係を築くことができる。

この見捨てられない関係を築くことが存在価値の価値。私は価値のある存在だから、相手は見捨てないと思って、これからも相手は私のことを見てくれると思う心。

人は見捨てられないと思うからこそ、優しくなれる。いつまでも優しい人間でいたいと思ったならば、怒ったり失敗していい顔ができなかった時に、謝って、すぐに許してもらうことが大切。

人の幸せは謝れるかどうかにかかっている。謝れる人は幸せになり、謝れない人は不幸になる。

幸せになる為にも、謝ってゆきたいですね。