本願疑惑の行者には 含花未出のひともあり 或生辺地ときらひつつ 或堕宮胎とすてらるる
阿弥陀仏の本願を疑う人は、自分の中にある悪を嫌い否定する人であるから、阿弥陀仏の光明に照らされたとしても、自分の悪が見えると否定してしまう。だから、仏智を受け取ることができず、つぼみの中に閉じこもってしまう人でもある。このような人は、今頑張るのは、やがて救われて、優越感を味わう為であり、そうしたならば、今まで頑張ってきた苦労が報われ、もう頑張らなくてもいい身になれると思っている。このように楽になること、優越感を味わうことが幸せだと思っているから辺地にしか生まれることができないと嫌われる。
結局、浄土に生まれたいと言いながら、浄土に生まれると言うことは、善をすることを喜び、どこどこまでも善に励み、努力を続けてゆく世界であることを知らない。みんなの為に苦労をし続ける世界が浄土だと分からないから、優越感を味わい、楽ができる世界が幸せだと思っている。
でも、そんな世界しか求めていない人でも、お母さんのお腹の中にいるように、温かい心を受け続けていったならば、胎児が育つように心が育ち、やがて本当の大人を求めて、本当の浄土を求め、世界へと飛び出す人となるのです。