最近、久しぶりに読書欲が盛り上がっている。

 

読むのはもっぱら恋愛小説。

 

早朝の5時から7時くらい。

真新しい朝の空の下、

ベランダの「人をダメにするイス」

で読書にふける。

 

至福の時間であります。

 

この前読んだ、山田詠美の

「血も涙もある」も

なかなかよかった!

気が向いたら、感想を書きたいな。

いわゆる「不倫」の三角関係のはなし。

 

最近、読み始めたのは

「わたしは女になりたい」。

窪美澄の作品。

 

ちょっと話題になっていたから

知っている人も多いかもしれない。

 

アラフィフの美容皮膚科女医が

14歳年下の男と恋をする話。

 

 

読み始めてすぐわかるのだけど

もうこの恋は終わっているらしい。

 

別れて5年経って、

やっと傷口がふさがってきたことが

語られる。

 

この時点で、ヒロインは53歳だったかな?

だから、お別れしたのは48歳。

 

なんだよ

ぜんぜん若いじゃないか、と

思ってしまうわたし。

 

そこにあるモノローグ。

 

その人生に、あの人のような人があらわれることは

もうないだろうし、

恋というものが介入してくることも

ないだろうと思う。

 

五十三才になった今にして思う。

 

あれが私の人生最後の恋だった。

 

美しいなぁ・・・

人生最後の恋か・・・

 

なんていう風には、

どうもわたしは思えない。

 

なんで、人生最後の恋、なんて

決めるんだろう?

 

新しい恋が、

明日にでも、訪れるかもしれないのに。

 

そして思う。

 

わたしは、年をとって

文学的な人間では

なくなってしまったのかもしれない。

 

昔は

こういう表現が好きだったし

屈託なく、共感できたのにな。

 

文学とは

とるにたらない、あるひとりの人生を

ものすごく特別な唯一のものとして

描くものだと思う。

 

専門家じゃないので

ぜんぜんわからないけど。

 

心理学みたいな、「普遍」を

取り出して「ほら」と見せるものではなく

唯一無二の、小さな「具体」を描くもの。

 

だから

広い視野で見れば

また新しい恋がやってくるかもしれないよ、

とか

53才なんて、まだまだいくつも恋愛できるよ

とか

そういう風に、視点を変えちゃいけなくて

 

「人生最後の恋」と、思うならば

そこに陶酔して、拘泥していてよいのだ。

 

 

わたしが文学的になっている時

 

はらぺこくんのような人は

もうこの先、わたしの人生に

あらわれないだろう、

と、甘く切なく思うのだけど

 

文学モードから抜け出ている時

 

まあ、はらぺこくんと同じ人は

もうあらわれないけれど

思いも寄らない、新しい人との出会いが

無数に待っているかもよ

と、思ったりもする。

 

後者でいるほうが

ずっと楽だし、心が健康だ。

 

でも・・・

こうやって小説を満喫するわたしは

やっぱりそればっかりじゃ

物足りないんだろう。

 

はらぺこくんとわたしは

かけがえのない、特別な関係だと

思いたい。

普遍の中のデータの1つになりたくない。

 

だた一人の人に、こだわり

代わりは、いないのだ、と

拘泥したい。

 

それが、苦しみの源だと

わかっていても。

 

 

なーんて

 

今の自分に、とってもピッタリな

小説を引き当てたような気がする。

 

読み終わったら、どんなことを

思っているのかな?

 

(おしまい)