+ 三回忌が過ぎた。 | around the secret

+ 三回忌が過ぎた。

 最近の病院では手術や大きい治療の予定がない患者は、退院させられるものらしい。


 ・・・・・・と書くと当然のようだが、手術後、口から食べ物を食べれない、自力で歩けない状態で、父は退院させられた。

 一日3日、近くの町医者に点滴に通うのだそうだが、歩くのは疎か立つのもままならない状態、ベットから玄関に出るのも10分はかかっただろう。病院の送迎車に乗るのも、車いすに乗るのも、全てが命を削っているように見える。

 そんな思いで点滴に行っても、皮膚が血管がボロボロで、生きていく為の栄養が定量分入らない日々。


 確かに病院で遠回しに余命は聞いた。ということは退院後は自宅でこうやってすり減って死んでいけということか。
 どうして良いのか分からなくて(何も出来ないのだろう)、自分達はド素人で、誰も頼れなくて、何より肉親の死を受け止め切れていないのに。

 調べたり福祉に相談したりして、在宅ホスピスの点滴と緩和ケアに切り替える。


 ホスピスに切り替えてから亡くなるまでが2ヶ月くらい。手術後の転移が原因だったようだ。開腹手術によって症状が進行するというのは、よくあるのだそうだ。

 点滴に通わなくて良くなったのがとてもプラスで、緩和ケアのおかげで身体も随分楽になったようだ。我慢してくれてたのもあるんだろうな。
 それでも病院ではなく、自宅で、家族と24時間過ごせた時間は良かったと思う。
 
 食道癌なんてそれまで聞いた事がなかったのに、父が亡くなってからよく耳にするようになった。

赤塚不二夫
岡田真澄
藤田まこと
開高健
桑田佳祐
小澤征爾
立川談志
忌野清志郎

 意識がそちらにいくから耳に入るだけかな?という気もするが、やはり実際に増えているような気がする(そして最近ではまた聞かなくなり)。
 父の発症が今だったなら、もしかして食道癌だとすぐ気付けて助かったかも知れないなとも思う。


 父が病気になってからは。
 母を支えないとという想いもあり、父の為に何が出来るかずっと考え、本当に今の病院で、治療法で合っているのかと迷い、今のうちに父と沢山喋っておきたいと題材を探し、だけど元々お互い無口で、会話でのコミニュケーションより、釣りに行ったり畑仕事をしたり、黙々と一緒に何かをする時間が長かったから、いざ喋ろうとしても言葉が出ず。

 父は夜の9時になると睡眠薬を飲んで寝てしまう。だからそれまでに帰らないとと帰宅を急ぎ、手足のマッサージで10分ほどコミニュケーションを取る。


 ブレーキもハンドルもない車に乗って壁に衝突しようとしているような毎日だった。泣いても喚いてもどうにもならない。1秒1秒正確に容赦なく壁はどんどん近づいてくる。出来るだけ壁から目を逸らしたい。いっそ早く壁にぶつかってしまいたい。

 その反面、頭がついていかないのか、父の来年の春のパジャマを揃えたりもしていた。亡くなる日の昼、往診の先生から「あと3日くらい」と言われた時も、「何言ってるの、ホント冗談のセンスがないんだから」と苦笑いをしてしまった。買い物帰りで大根やら長ネギを抱えている自分の姿が変だなぁなんて暢気に考えていた。


 自分の為に「助かった」と思えたのは、先が見えない状態で、大体の頼みを聞いてあげれた事。いや、私が叶えてあげれるような頼み事を、わざとしてくれたんだろうな。

 亡くなる前の夜、私は会社から疲れて帰って、食事前に軽く手足をマッサージしてあげた。それが終わり食卓についた後、もう一度呼ばれて、手を出された。握手?起き上がりたいのかな?色々「?」マークが浮かんだ後、取りあえずマッサージしてあげると笑ってくれた。あの時、冷たくしなくて良かったと心底思う。あの時もし「今日は勘弁してや」とか言っていたら一生後悔した。まさかあれが最後になると思わなかったから、私の頭の中では絶対に亡くならないと思ってたから、それは有り得る事で。そのことだけは神様に感謝出来る。


 葬儀場で父の名前がデカデカと書かれている時、焼き場で遺骨を見る時は、とても変な感じがした。悲しいというより違和感だった。

 焼き場に行くのが恐怖だった。親を焼くのだ。父の兄弟が「お葬式をした勢いでないと、焼き場になんて行けない。うまいことなってる」と言った。その通りだと思った。


 亡くなってから3年ほど経った今でも、断腸の思いだとか強烈な悲しみというより違和感の方が強い。
 一人暮らし歴が長かったからだろうか?単に遠くに居るだけのよう気がしている。そういえば私は死後の世界を信じているから、あながち外れていないかも知れない。

 病気で苦しんで弱っていた父が、元気になって遠くに行ったような、亡くなったことによって病が治ったような気がしている。