+ 嫌われちゃうコンプレックス | around the secret

+ 嫌われちゃうコンプレックス

 今はもう信じられなくなった友人が、自分はアダルトチルドレンだ精神病だ世間にこんなに傷つけられているんだ健常者の貴方達は楽で良いわねと周囲に噛みつきまくり、大方の友人に縁切りされた末 「これで私の友達関係にリセットが入ったわけだ」と口走っていたのを覚えている。


 彼女が「新しく発見したアダルトチルドレンである自分」としての友人関係を構築しなおそうとするのは前向きな事だったのだとは思う。

 あれから何年か経った今、彼女の生活がどう変わったか極端なリセット例として興味がある。人を切り捨てる時は、物のように「やっぱ要る」と買い直すわけには、いかない。


 最近、幼なじみとの付き合いが辛い。

 最初の違和感を感じた時期を過ぎ、「キツい」がデフォルトになった辺りから、半ば自棄気味に同意出来ない話には同意せず、自業自得と思われるものには突っ込みを入れつつ、凄いと思う話には素直に感動しつつマイペースな付き合いをしていたら、何だか随分気難しいイヤなヤツになってしまった(と思う)。

 誠実さを問われれば自信があるのだが、至近距離での違和感はかなりキツイので、私の態度も容赦ない。

 そもそも私は共感能力にも自信がない。若かった頃、友達の幸不幸を我が事のように反応出来たのは、共通部分が多すぎて、いっそ我が事と錯覚していたからだと思う。そういう情が篤そうなのに限って、誰かがいざ自分の手の届かない所に突き抜けて行っちゃうと、足を引っ張ったり僻んだりするのだろう。いっそ他人ならね、共感出来る事が嬉しくてポジティブに共感出来るのだけど。

 本当に素敵な共感をする人をあまり見た事がないし、その手の人は共感なんて手段以外でも有意義な会話が出来るものだ。

 

 社会人になって暫く経って思うには、モラトリアムの人同士が友達になるのは割と簡単だったということ。自分の手で何かを成し(何かを成せず)何かを選び(何かを捨て)、何かを得た(同時に何かを失った)人間同士は、悔いも自負も嫉妬も羨望も生々しいので、余程状況が恵まれない限り、子供の頃のままの距離では、危険なのだ。


 最近の私は、親しい人(多分、好きと同義)にこそ「嫌われちゃってるだろうな」というコンプレックスが付き纏う。