最近は洪拳の短勁の練習を良くしております。
師父が言うには、これは客家拳類の発勁と同じだそうですが、同時に太極拳にも少し共通性がある気がしてきました。
もちろん、力の雰囲気はだいぶ違うのですが、用勁としてまとめるところが似ているように思ったのです。
つまり、纏糸ですね。
昭和の空手には、螺旋信仰がありました。
正拳突きは捻じるから威力が1・5倍になるので強力なのだ、というような迷信です。
これと大同小異なレベルで、21世紀になっても螺旋を描くと威力が出るのだ、というような迷信が泡沫雑誌で取り上げられたりしていました。
ここで言っているのはそういう運動上の話ではありません。
いつも私が書いていることは、表面上の運動の話ではありません。
この、螺旋を描くというのはあくまで結果的にそうなるというお話です。本質は別のところにあります。
師父の太極拳の師爺は、太極拳は開合拳であると明文化しています。
師父からも、太極拳は全部会合なんだと教わりました。
これは蔡李佛とは大いに違います。
蔡李佛では開合はなくてよろしい。
あとのせトッピングで使いたければ使っても良いのでしょうが、本質ではありません。
私が教わっている系列の太極拳では、開合が主導力です。
しかし、それは単純な意味合いでではありません。
むしろそれらと逆転しています。
例えば空手の突きは捻じるから効くのだというような考え方は、あくまで物理的、かつ表彰的なお話です。
これとはぜんぜん違う。
ある意味でそれとは逆のお話となります。
というのも、太極拳、また私が洪拳や客家拳の要領として教わっているのは、厳密に言えばねじり込むのは打たないときだからです。
蓄して発するという二段階動作が太極拳の特徴であり、そのために開と合での開合拳となるのでしょうが、これの前段の部分、蓄のところでねじり込みます。合ですね。
そして、発勁して打つときには 開して放つのです。
太極拳では身の中に弓を作ると言うそうですが、弓なので一旦引くのです。
それから放つ。
纏めた物を離して開放した時に攻撃が放たれるのです。
これを試すと、確かに発勁時に力感はありません。
身体の一部が無機物のように飛んでゆく感覚があるのみです。
発したときには開放感のみがあります。
いわばある種の逆転現象があるのですが、これ、他の拳種にも後乗せマシマシトッピングが出来るんじゃないかと思って試してみました。
太極拳とは相性がよくて混同されがちな形意拳で試してみたら、確かに非常に合わせやすい。
もちろん、私は形意拳の先生ではなくて六年くらい習っていたことがあるだけなので、全然それができていると言えるレベルにはないと思います。
あくまでそのレベルの範囲で、この蓄発は合わせやすい。
となると、私が自分の門としてやっている五祖拳ではどうでしょう。
これがやっぱり合わせやすい。
五祖拳は福建南拳類なので、共通性のある客家拳の要素は合わせやすくても納得がいきます。
客家拳法の場合は、太極拳のように一つにまとめて蓄発はせず、身体の左右を分けておいて、片側で蓄、片側で発という切り替えを連続で行うよう連功します。
そうすると、常に攻防一体の連続となるので勝手が良い。
拳法自体がそれ前提で構成されています。
その紹式の部分で言うなら、五祖拳がそれにかなっているかはまだ現状はわかりません。
鶴拳類の動きはまた違う気がします。
なんでもかんでも無理やり共通項を見つけるのは非常に私の忌むところです。
五祖拳ではせっかく正しい発勁を教わっている最中なので、この方法とはまた分けて、しっかりとした正しいやり方を練ってゆきましょう。