最近、宮台真司教授が異界について語っています。
異界とは、日常生活を離れた感覚のある空間や時間のことで「終わりなき日常を生きよ」と説いた社会学の教授がと語るにはふさわしいテーマであると感じます。
この異界の存在が、ただただ永遠に続くように感じられる「終わりなき日常」と陰陽関係で一対となっています。
時間で言うならいわゆる「ハレとケ」となるのでしょうし、場所で言うのならと言うと、教授は「悪所」について言及します。
もしかしたら最近の価値観で言うと「悪所」とはなんだ、セックス・ワーカーやギャンブル産業従事者を差別しているのか、と取る人もいるのかもしれませんが、そのような、悪所とは日の当たらない場所、それゆえに特別であり、日常ではない場所、という意識こそが教授の言う「掟」の価値観でした。
この、掟の道義心を理解せず、法や言葉、損得に囚われる人間は、教授が曰くには「豚」「ゴミ」となります。
人間は、明文化された法や損得の他に倫理観や美意識を持っていますので、そこが理解できなければそれはもう人としてのレベルを問う場面に当たるのでしょう。
最近も、芸術関係の学問界の人たちが吉原を「イケてるところ」とした展示を企画して世間から非難を浴びることになりましたが、これもまた、悪所を悪所を見なさず表層的な美しさに飾ろうと言う見解に対して世間の倫理が反発した物であると感じられます。
この異界、もちろん悪所の他にもあります。
ある時、私は瞑想によってそういう場所に至るという経験を何気なく話したことがあったのですが、それに対して能では意図的にそこに至ることをしており、頻繁にそこに至ると言うことを聴きました。
脳の幽玄と言うのは恐らくそこがポイントなのでしょうね。
また、そのような体験は西洋哲学では崇高体験と呼ばれます。
すなわち、自分と世界そのものの他には何もなく、そこで起きている物にたいして自分が何もしえないという状況下で至る感覚のことだと言います。
昔は、宇宙飛行士は大気圏外に出た時にそれを感じ、価値観が変わると言われていました。
しかしこれは別に、ロケットの力を借りる必要はないのです。
地上に居て、ただ空を眺めたり海を眺めたりしてればいい。
砂漠に隠棲したり、あるいは霊峰に昇ったりしてもよいのでしょう。
ですが、それらも必要なくそこに至るための手段が哲学であり、瞑想などの修行であると私は理解しています。
結局、人の社会、いわば娑婆に居ることによって人間の感性は鈍麻し、法や言葉、損得に囚われた感性に陥りがちになる。
ならばそこを離れた時の感覚を精神に維持していれば、いつでもどこでも人は恐らく、異界に出入りすることが可能なはずです。
能というのは、ゴリゴリの階級社会に抑圧された一生を送っていた古人を異界に送って生の感覚を取り戻させるための手段だったのではないでしょうか。
同様のことは、禅や茶道、華道、太極拳でもあったのであろうと推測できます。
絵画や彫刻、作曲などの芸術でもそうだったことでしょう。
むろん、少林拳は禅の行ですから、当然そこに含まれます。
私が師父から教わったのはそういうことでした。
そういうことを、私は通天と表現します。
これは老荘の考えですね。
儒教で言うなら、天人合一でしょう。
そのようにして、天に存在している道と一つになって生きて行く。
明文化された法律や言葉、損得に束縛された人間性では中々そこには至れないことでしょう。
中国武術は強弱や勝敗ではないと繰り返し言ってきたのは、そういうことが伝えたいからです。
私の天を思うなら、いまは人類の歴史や文化、思想の世界に居ます。
これはこれで一つの天だと思うのですが、本当はこれらもまた無くてもよいのであろうと思います。
そういった、人の作った物を介さずに直に宇宙と繋がれる人の方が、より高いところにありますね。
私はまぁ別に闇雲に高さを求めなくてもよいのですが、私の後から学ぶ人には、そこに至れるということの方が高いのだということを伝えてゆきたい次第です。