件の「パーフェクト・デイズ」、ラストシーンに意味が集約されているような作りの映画でした。
そして、そのラストの解釈によって映画全体の意味が180度変わってしまうという非常に難しい作りでした。
そのために「これはすごい映画だ」と感じる所が強く、帰宅後、ついつい普段はしないのにヴィム・ヴェンダース監督のインタビューを読んで答えを探してしまいました。
というのも、この映画に関する私の目にした2つのベクトルの真反対な感想がまさにそこを分けるところだからです。
その2つの感想というのは「貧困老人を勝手に理想化する欺瞞的な作品だ」という物と「選択的没落貴族という生き方が世の中にはある」というものでした。
後者の感想を目にした時、私はそれが自分自身のことだと感じました。
夜の盛衰に興味を感じることがなく、自ら俗世を離れて隠棲を選んだ人間だからです。
この作品の主人公が、苦しみ悶えて生きている貧困老人なのか、それとも世を見切った選択的没落貴族なのか、監督がどちらを意識しているのかに非常に興味がありました。
ちょうど、YOUTUBEにまさにその答えを明かしたようなインタビューがあり、それを見つけることができました。
こちらがそのインタビューです。
https://www.youtube.com/watch?v=3rtwl8xN_PE
この中で、彼は初めから、禅僧の生活を描こうとしていたということを語っています。
そしてラストシーンで主人公が浮かべる表情は、歓喜であるとも語っています。
これによって、完全に答えが見つかったと感じました。
昔から、日本では移り変わる俗世の虚しさを感じた者が、寺に入って禅僧になるということがありました。
中国においてはその禅僧の暮らしの中で少林拳が伝えられてきました。
まさにこれは、私自身のことを描いた作品だったのです。
作中における、光と影のモチーフは陰陽思想を描いた物であるようでした。
なぜ主人公が豊かな生活をなげうって、私が言うところの「パーフェクト・ライフ」に入っていったのか。
それは、光と影を感じる体験をしたからだと監督は言います。
それまで当たり前にあったその光の中に、あるとき彼は自分と独自性、固有性ということを発見して、その尊さを知ったからなのだと語っています。
私が平素から少林武術の目的だとして語っている、個の確立そのものです。
それによって彼はそれまでの、物質と社会的ステータスが中核をしめる表層的な豊かさや決まりごとの反復だけで構成された虚栄的な生活を捨てて、自分自身が本当に喜びに満ちて生きられる場所に移動したのだということです。
まさにこれは、もうひとりの私自身の物語でした。
カンフー・マスターとしての道に踏み込む前、私は老人関係の仕事をしていました。
もう、世俗の虚栄を離れた人達となら上手くやってゆけるかもしれないと思ったからです。
しかし、実際には老人たちの中には、はむしろ老化による無力感から、悪しき社会の影響がえげつなく煮詰められているような人達が沢山いました。
その職を離れた後、今度は私は墓守の職を求めるようになっていました。
もう死んでいる人々の痕跡を管理し続ける生活なら耐えられるかもしれないと思ったためです。
実際には、その前にいまの場所に繋がる道が拓けました。
ある意味で今の生活は、すでにこの世を去った人々の遺産を管理し、守るという墓守です。
私の手にしている学問や力はみんな故人から借りているものばかりです。
決して私するものではない。
導かれるようにしてたどり着いたこの生活は、間違いなく私にとってはパーフェクト・デイズです。