本日もルーシーダットン。
猛暑の中で朝からずっとというのは中々に疲れるものです。
とはいえそのだるさが良い方向に作用もしているのか、より力を抜いて行えるようになってきました。
となってくると、またいろいろ見えてくる物もありまして、それはまた後日別記事で書きたいと思います。
本日書きたいと思ったことは、その練習の合間に不意に思ったことです。
先週までのチネイザンの練習で悲しみがあふれ出してきて、そのせいで少し途方にくれたような気で過ごしていたのですが、そろそろこの旅からも帰国する日が近づいてきておりまして、お土産のことなどを考えはじめました。
そうすると連想として、その後の暮らしのことなども考えます。
私の暮らしとなると、やはり練習をして、それをお伝えして、食べて飲んで寝る。
せっかく今回学んだことを持ち帰るのだから、それらを展開した二手先三手先の計画を立てたいのですが、どうもそちらに頭が働かない。
未経験のことなので材料が少ないせいもあります。
また、そもそも私の暮らしと言う物が、一口食べたごはんのことを感じ、次の一口のことを考え、早く寝てゆっくり起きるというような物なので、あまりそのような計画に向いていない。
このタイでの日々の間、ひたすら学習以外のことをしないでいるので、少し生活の中心のようなことを失っていたことで余計に考えが回らなくなっているような気もします。
この中心の喪失というのは大変に不安定な気がします。
チネイザンでは心の中心をほぐし、ルーシーダットンで体の中心をほぐします。
もしかしたらそれらが私と言う存在の在り方そのものに影響したかもしれない。
中心を失った自分でいることは不安定なようにも感じましたが、お土産だなんだのことを考えているうちに、また元の自分の感覚が返ってきたような気がしています。
となると、これはあやうく自分を見失いかけて危機一髪だった経験、と解釈も出来るのですが、決してそうは感じませんでした。
むしろ、自分が一度解体されたことが良かったと言う気がしています。
解体されても、戻ってきたときに方角は見失っていません。
むしろオーバーホールされたような感覚があります。
これは、一度形作られた物が虚に還るということを由とする陰陽思想でいう混元の感覚であるかもしれません。
陰陽は分明する物であり、混在させてはいけないというのは気功や中国武術の基本です。
しかし同時に、混沌を分明させるべからずという教えがあったり、混元が重んじられているという側面もあります。
その意味が、今回の経験で少しわかったような気がしました。
私自身の存在が一度混元に還り、そこから再構成されたことで、何かが大きく進んだような感があります。
これは、ある種のイニシエーションでしか得られないような感覚である気がします。
文化人類学などで言ういわゆるメメント・モリ、死の疑似体験をすることで生の在り方を構成しなおすという儀式を経験したように思います。
ヨーロッパの人などが一年のうちに何か月か休みを取るというのも、それまでの社会生活を離れて一度自分の社会的立場を解体するということに意味があるのかもしれません。
これまでの人生であまり休みと言うものを得ずに来たのですが、それはもしかしたら自分の仕事に固執してきて、その上に成り立つ自分に執着していたからかもしれない。
今回、何もない自分に戻っての日々を経たことは、とても良い経験であったように思います