「ヨーロッパ一九五一年」
(原題:Europe '51)
1952年9月12日公開。
イングリッド・バーグマン主演の問題作。
自分を犠牲にし隣人愛のみに生きる女性を熱演。
脚本:ロベルト・ロッセリーニ、 サンドロ・デ・フェオ
監督:ロベルト・ロッセリーニ
キャスト:
イングリッド・バーグマン:アイリン
アレクサンダー・ノックス:ジョージ
エットーレ・ジャンニーニ:アンドレ
ジュリエッタ・マシーナ:ジュリエッタ
あらすじ:
ローマに住むアイリン(I・バーグマン)と夫のジョージ(A・ノックス)はいつも社交生活に忙殺されていた。
ジョージは米国商社の駐伊総代理人なので、名士のとの交際が多かったのである。
二人には十二歳になるミシェルという息子があったが、アイリンは殆んど息子の面倒を見てやることが出来なかった。
ミシェルは空襲下に幼年時代を過したので神経質な少年に育ち、母親にかえりみられない淋しさに耐えられなかった。
遂に彼はある夜、階段から身を投げた。
生命をとりとめたが、退院した後、容態が急に変わってミシェルは息をひきとった。
アイリンは絶望にうちのめされ、健康をも損ね、すっかり人柄が変わってしまった。
彼女は左翼の新聞記者で従兄弟のアンドレ(エットーレ・ジャンニーニ)と交際をはじめ、彼の思想になぐさめを見出した。
彼の言葉に心をうたれて、アイリンは進んで貧しい人たちの生活の中へ入つて行った。
その中には六人の子持ちのジュリエッタ(ジュリエッタ・マシーナ)という朗らかな婦人もいた。
こうしてジョージとアイリンの世界は全くかけはなれ、二人の愛情は冷たくなって行った。
アイリンは夫の眼をかすめて工場で働いたが、ある夜、彼女はほんとうの人間らしい生活を求めて家出した。
彼女は瀕死の夜の女イネスに出会い、イネスが息をひきとるまで親身も及ばぬ世話をした。
次いで、彼女は銀行ギャングの一味に加わって殺人を犯した青年を逃してやり、そのため共犯者として警察に連行された。
間もなく釈放はされたが、この事件は新聞種となり、ジョージもアンドレも彼女をこのままにしておくことができなくなった。
二人は彼女をだまして精神病院へ連れて行った。
アイリンの心は奈落の底へ落ちそうだったが、何ものかが彼女を支えた。
それは誠実であり、愛の心であった。
牧師は信仰の力で彼女を導こうと試み、判事は現実の社会を彼女に理解させようと努めたが、彼女を納得させることは出来なかった。
自分を犠牲にし、隣人愛のみに生きるアイリンは、夫の許に帰ることも拒んで、精神病者たちを愛して生き抜いて行こうと決意したのであった。
コメント:
ブルジョワジーの恵まれた生活ぶりとは対照に、プロレタリアートの過酷な現状を描いた物語は、イタリアン・ネオリアリズモならではの味わいがある。
それは、ロケ撮影を主体にした写実的な風俗描写や、決してハッピーエンドにはならない鬱々とした終幕を含めて一貫している。
愛する我が子の自殺を契機に階級間格差に目覚め、理想と現実、正常と異常の狭間で苦しみながら、貧しい人を愛することを自らに強いた女の数奇な運命に引き込まれる異色の人間ドラマ。
エンドで、牧師の説教にも負けず、自らの意志で自分を犠牲にし、隣人愛のみに生きる決心をするという女性の姿は、既成のキリスト教とも異なるイエスの精神を強調したかったのだろうか。
ヴェネツィア映画祭でプレミア上映されたとき、この映画は左翼とカトリックの両方の観点から厳しく批判された。
オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙のピエロ・レニョーリは、この映画をロッセリーニの近年の最高傑作と評価したが、宗教的および世俗的権威の代表者の描写を批判した。
1954年のニューヨーク・タイムズ紙の書評の中で、ボスリー・クラウザーはスターのイングリッド・バーグマンに優しい言葉をかけたが、この映画は「暗く表面的で説得力がない」として却下した。
一方、フランスの批評家アンドレ・バザンは、『ヨーロッパ'51』を批評家によって誤った評価を受けた「呪われた傑作」と呼んだ。
近年になって批評家たちはこの映画の性質を再考している。
2013年にニューヨーカー誌に掲載されたクライテリオンのホームメディア発表をレビューし、リチャード・ブロディはヨーロッパ'51を「映画製作における模範的な教訓」と称した。
映画史家のデヴィッド・トムソンは『ニュー・リパブリック』誌に寄稿し、『ヨーロッパ'51』をクライテリオンリリースの3作品の中で最も興味深いと評価し、「他の2作品には見られない穏やかで実存的な構造」を指摘した。
いずれにしても、難しすぎる映画であることは確かだ。
この映画は、YouTubeで全編無料視聴可能。