「海は見ていた」
2002年7月27日公開。
熊井啓監督の遺作。
原作:山本周五郎『なんの花か薫る』『つゆのひぬま』
脚本:黒澤明
監督:熊井啓
キャスト:
- お新:遠野凪子
- 菊乃:清水美砂
- 良介:永瀬正敏(子供時代:片岡涼)
- 房之助:吉岡秀隆
- お吉:つみきみほ
- おその:河合美智子
- 権太:北村有起哉
- おみね:野川由美子
- 善兵衛:石橋蓮司
- 銀次:奥田瑛二
- 梅吉:鴨川てんし
- 八番組:加藤隆之、佐藤健太
- 向かいの女郎:土屋久美子
- 文治:佐藤輝
- 番太郎:大槻修治
- お新の妹:茂木雪乃
- 祭りの男:三国一夫
- 駕籠かきの富吉:谷口公一
- 駕籠かきの五助:田中輝彦
- 向かいのやりて婆:松美里杷
あらすじ:
江戸・深川の岡場所にある”葦の家“の若い娼婦・お新は、女将さんや姐御肌の菊乃らから「客に惚れてはいけない」と遊女の哀しい掟を教えられていたものの、刃傷沙汰を起こし勘当された身でありながら彼女の元に通い詰める房之助に想いを寄せるようになっていた。
だがある日、勘当を解かれた報告にやって来た房之助は、別の女性との婚礼をお新に告げる。
実は、彼はただ勘当の身の辛さを忘れる為だけにお新の元に通っていただけなのだった。
絶望の日々の中、お新の前に謎めいたひとりの青年・良介が現れる。
良介の不幸な生い立ちを知り、自暴自棄になっていた彼を励ますうち、再び客である良介に惹かれてしまうお新。
そんな夏のある日、深川を嵐が見舞う。
激しい雷雨、川の氾濫、高潮……。
逃げそびれた菊乃とお新は屋根へと避難するが、そこへ一度は火事場泥棒にやって来た菊乃のヒモ・銀次を殺害しほとぼりが冷めるまで上方に逃げた筈の良介がふたりを助けに引き返して来た。
しかし、壊れかけた舟の定員はふたり。
迷わず残ることを決めた菊乃は、ふたりを見送ると満天の星空をひとり見上げるのだった……。
コメント:
原作は、山本周五郎の短編小説『なんの花か薫る』と『つゆのひぬま』の二編である。
『なんの花か薫る』は、遊郭に生きる女性と親に勘当された若侍との恋物語だ。
酔って喧嘩をし、追われてきた若い侍が遊郭に飛び込んでくるが、遊女の機転で助けられる。
それを機に勘当の身となった侍と遊女は将来を約束する仲になり、遊女はその恋の成就にすべてをかけるようになっていく。
だが、勘当が解けた侍は、武家の娘を嫁に貰うことになったと告げに来る。
別れの場には仄かに匂う花の薫りが・・・。
残酷な裏切りの形となって結末を迎える中で、薫る花は「卯の花」だった。
これだけでも、映画が一本出来上がりそうな山本周五郎らしいしっとりした作品である。
『つゆのひぬま』も、やはり江戸の遊郭で生きる女たちの物語だ。
漢字にすると「露の干ぬ間」である。
その意味は、「露がまだ消えていない間」つまり、「短い間」「儚い時間」 ということだ。
これは、深川の小さな娼家に働く、若い娼婦と、年かさの娼婦の二人を中心にした物語だ。
ある日年輩の娼婦は、ある男を客にとる。
彼女は、労咳の浪人の夫と子供をかかえていると自分の身の上話を作り上げ、金をためるのに励んでいる。
その後、大洪水で屋根の上にとり残された二人の娼婦。
そこに助けにきた男が。
黒澤明脚本の遺稿を映画化した作品である。
巨匠・黒澤明監督が自ら第31作目の監督作品として書き上げながら結局実現することのなかった遺稿脚本を熊井啓監督が映画化。
また、熊井監督にとっても遺作となった。
これこそ、時代小説の名匠・山本周五郎の日本人の心を映画化した名作である。
江戸時代に生きる侍たちの苦悩、江戸の底辺で生きる遊女たちの苦しみと生き甲斐。
江戸の町での武家の若侍と遊女たちとの出会い。
今や想像することもできない江戸時代における士農工商という差別社会で、人はどう生きたのかをしっかりと描いた山本周五郎の小説の真髄が、この映画で世に示されたのだ。
江戸時代というがんじがらめのしきたりに苦悩する人々の心情が伝わってくる名作である。
洪水のシーンを見て、深川から海が見えるのかと思ったが、江戸時代の深川は、東京湾が目と鼻の近さだったのだ。
屋根に登れば、海が目の前だっただろう。
江戸時代の地図を見るとそれがよく分かる。
江戸・深川の岡場所を舞台に、遊女たちの逞しくも哀しい生き様を描く作品。
この映画は、江戸の遊郭情緒とそこで繰り広げられる客との恋模様を描いており、素晴らしい。
清水美砂が素敵で、女の心意気を見せてくれてすがすがしい気持ちになる。
後半の洪水のシーンも段々と水かさが増えていく過程がリアルで迫力満点だった。
江戸時代には、水害も多くて江戸の町は大変だったようだ。
江戸時代を通じて忘れることのできない「9つの水害」というのが記録されている。
1.延宝8年(1680年)の水害:
8月5日の夜半より大暴風雨となり、6日の昼ごろから倒壊する家屋が続出した。
さらに午後2時ごろに津波が襲って、本所(ほんじょ)や深川、築地(つきじ)のあたりに大きな被害が出た。
溺死者700人。
20万石の米が水に流された。
2.宝永元年(1704年)の水害:
6月半ばからの大雨で、7月3日に利根川猿が股の堤防が決壊。
葛西一帯から亀戸、本所、深川、浅草方面が水びたしになった。
3.寛保2年(1742年)の水害:
江戸第一の水害といわれている。
7月28日以来の大雨に加え、8月1日2日と大暴風雨に。
関東郡代の伊奈氏が、江戸を救うために猿が股の上流で堤防を切り、水を葛西に流した。
このために江東方面は水びたしとなり、綾瀬(あやせ)や千住三丁目の堤防もきれ、浅草から下谷(したや)一帯まで泥の海と化した。
8月いっぱいの幕府の炊き出しは、延べ18万6千人分に達したといわれている。
今なら間違いなく内閣総辞職だ。
4.安永9年(1780年)の水害:
6月20日ごろから利根川、荒川の増水で江東方面が水びたしとなり、両国橋、永代橋、新大橋が決壊して大騒動となった。
5.天明6年(1788年)の水害:
7月12日夜から大雨。
18日になってもやまず、大洪水に。
江東地帯は,寛保の水害の時より四尺(1.2メートル)深く水が出たといわれている。
6.寛政3年(1791年)の水害:
8月以来の雨で隅田川が増水し、新大橋、大川橋が決壊。
9月4日に大暴風雨、さらに深川、築地、芝浦方面を津波が襲い、大災害となった。
7.享和2年(1802年)の水害:
6月来から7月上旬にかけての大雨で権現堂堤がきれ、綾瀬川が氾濫し、葛西方面から本所、深川にかけて大被害が出た。
8.弘化3年(1846年)の水害:
6月中旬以降の大雨で、28日、川俣村の堤防が決壊。
30日以降、浅草、本所、深川から葛西一帯が水びたしとなり、「巨海の如し」という惨状になった。
9.安政3年(1856年)の水害:
8月25日に大暴風雨となり、永代橋、新大橋、大川橋が決壊。
本所、深川方面は出水によって被害が甚大になった。
また風による被害も大きく、特に佃島(つくだじま)の被害は大きかったといわれている。
以上のうち、寛保2年、天明6年、弘化3年の水害が、江戸の3大洪水といわれている。
江戸の町での災害と言えば、火事が有名だが、実は水害も多かったのだ。
この記録を見ると、ほとんどの水害で深川は水浸しになったようだ。
この映画は、TSUTAYAでレンタル可能: