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野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

我が家から路地を隔てて数メートル先に建つマンションに外国人が何人か暮らしていて騒がしいという話をしてきた。

 

先日、2軒向こうの人と立ち話をしていて、その人も困っているとため息をついた。

 

その人の話では彼らは日本語学校の生徒で、日本語学校がマンションを丸ごと借りているとか。

 

となるとなお腹立たしい。

 

日本語を学ぶというのはやがては日本で働きたいということだろうし、仮に自分たちの国に帰って働くにせよ日本語を活かしたいということであろう。

 

だったら言葉だけではなく、日本のマナー、モラルをも学ぶ必要があるわけで、深夜にマンションの通路(廊下)や階段の踊り場で大騒ぎするのとは反している。

 

狭い土地に身を寄せ合うように暮らしてきた日本人は、だから他人に迷惑をかけないように深夜は静かに暮らしてきた。

 

声を潜めてきた。

 

それもいわば日本文化であり、彼らはそれに合わせるべきだ。

 

観光客のように一時の滞在、あるいは旅の恥はかき捨て、ではすまない。

 

少し前に散髪に行ったら、散髪屋の主人が最近、近所で暮らす外国人がコンビニの前の植え込みの中に入り、数人で酒を飲んで大騒ぎし、近所迷惑も甚だしいと愚痴っていた。

 

別な外国人が別な場所でトラブルを起こしている。

 

そのうち、近所と衝突しかねない事態らしい。

 

日本語学校は本来ならそういう日本人のマナー、モラルをも教えるべきだがそんな責任をとるつもりはないだろう。

 

金儲け、どんな人間でも受け入れ、日本人に迷惑をかけてもおかまいなしだ。

 

近所に暮らす外国人のみんながみんなそうではない。

 

しかし数人が騒ぐことで全員、そういう目で見られることはさけられない。

 

外国人が鬱陶しいというのは排外主義からではない。

 

彼らを追い出せとは言わない。

 

けれど彼らから日本のスタンダードに合わせるべきだ。

 

でないと、対立し、それこそ排外主義に走らせる。

 

彼らはそのことを肝に命じねばならない。

 

日本が閉じた国、もっと外国人に門戸を開くべきだという時代はもう過ぎた。

 

いまは実際にたくさんの外国人が入り込んできてぎくしゃくしている時代だ。

 

国際化などという甘い時代ではない。

 

もし彼らを受け入れるべきというのならそのぎくしゃくを放置してはいけない。

 

このままだとオーバーツーリズムによる外国人観光客のマナーの悪さと相まって、排外主義に発展する可能性は大きいし、そうなりつつある。