英会話は実践あるのみ | 野中宗助の日常

野中宗助の日常

漱石「門」の主人公の名前を拝借

10数年前から2年前まで英会話教室に通っていた。

 

理由は、海外旅行に行くと単独行動しなければならないからだ。

 

旅行にはつれあいと行くが、つれあいは海外旅行専門のツアコンをやっていたので英語他、だいたい話せるのと、ショッピングに忙しい。

 

自分はまったく話せないが、ショッピングに興味がなく、せっかく見知らぬ土地に来ているので行きたいところに行きたいからだ。

 

で、単独行動をするが、やはり話せないと道に迷ったり、おたおたする。

 

背に腹は代えられず、六十の手習いを始めた。

 

しかし週一で80分ほど学んだとてとても身につくものではない。

 

ところが数年前から観光ガイドをはじめ、コロナ禍がすぎた2年ほど前から京都に外国人観光客が大挙して押し寄せ、必然的に英語を話さねばならなくなる。

 

当初は道を聞かれたり、トイレがどこかを聞かれたりとパターンは決まっていたが、最近は予期せぬ質問も多く、それが続くとすこしずつ聞き取れ、話すことがすこしできるようになってきた。

 

昨日もある寺で勤務をしていると「御朱印はどこで書いてもらえるのか?」と英語で尋ねられ、どこそこで書いてもらえる、そこにいくのはこうだと即答できた。

 

もちろん語彙は拙い。

 

知っている語彙の数は知れているし、正確な表現でないだろう。

 

でもなんとか相手に通じるようにはなってきている。

 

昔、マイナーリーグに1年だけ所属していた元野球選手と知り合い、彼は学生時代、まったく英語がダメだったが向こうで暮らすと必要に迫られて話すようになると語っていた。

 

いや英語で話す度胸がつくと。

 

ただ書くことはできない、スペルがわからないが、話はできるらしい。

 

単語の並べ方、文法もいい加減だが話せるらしい。

 

それに似ている。

 

ガイドをしていると向こうからの質問に答えるだけではなく、こちらから話しかけねばならないことが多い。

 

国宝などが置かれている場所では、ペットボトルの持ち込み禁止、写真撮影の禁止、国宝に触ること禁止など注意しなければならず、単純に「NO PHOTO」では済まない。

 

どうしていけないのか?逆に尋ねてくる外国人も多く、英語で話しかけると英語が通じると誤解され、別な質問もしてくる。

 

わからない語彙があればすぐスマホで調べ、答えられるように努力する。

 

そのうちに変に自信がついて自分から話しかけ、この仏はこういう仏だと短くガイドすることもある。

 

もちろん「自分は英語を話せます」というレベルではない。

 

あくまで片言だが、外国人が片言の日本語で話してくるとだいたい意味を解することができるように、自分が英語もどきで話すと向こうも解してくれる。

 

いまより上達はしないし、もう爺なのでいまさら英語をちゃんと学ぶには手遅れだ。

 

しかし外国人に話しかけることに臆することはなくなり、知っている単語を駆使して話すのは楽しい。

 

そんなこともあり、英会話教室に通うのを、おととしやめた。

 

授業料が高くてバカバカしいし、なにより意味がない。

 

実際に外国人に話す機会がないと英会話などできるはずがない。

 

いまは積極的に、バス停などで地図片手におたおたしている外国人を見かけると「どこへ行きたいの?」と話しかけ、教えている。

 

変なおじさんにみえるだろうが、楽しい。