借金40億円!瀕死の企業を再生し成功へと導く。
湯澤 剛氏の実録ノンフィクション。エリートサラリーマンから、
ある日突然40億の借金を背負う経営者になった男性の、
壮絶な16年が描かれた本です。艱難辛苦の中の壮絶なドラマ、
惨憺なる日々に如何に希望を見出していくのか。
~本文より~
辛く屈辱的なことかあっても、とにかく1日は終わるのだ。
著書
「ある日突然40億円の借金を背負う―それでも人生はなんとかなる」
5月13日(金)19時から仙台講演決定!
https://www.facebook.com/events/1064910563531371/
スープカレーさくらでは、前売りチケットを取り扱っております。
(予定です。近日中に届く手配済みです。)
内容紹介
本書は、ビジネスノンフィクションです。著者の湯澤氏は、人も羨むようなエリートサラリーマンだったにもかかわらず、父の急逝により、家業と莫大な借金を受け継ぐことになりました。その額、40億円。継いだ企業は「会社」と呼べないほどの崩壊状態、家にも督促の電話がかかってくる日々でした。やっと調子が上向いたと思えば、店の火事、ベテラン社員の死、食中毒事件と、驚くべき不運が続きます。しかし湯澤氏は、何度倒れても立ち上がるボクサーのようにKO寸前でよみがえり、ついには「80年かかる」といわれた返済を目前に控えるまでにこぎつけました。人生、いつ、何があるかわかりません。今どんなに“のっている”人も、今どれほど追い詰められている人も、湯澤さんの数奇な体験に胸が熱くなり、勇気をもらうことでしょう。机上の空論や飾り言葉ではない、真の「経営論」「人生論」がここにあります。
著者について
株式会社 湯佐和 代表取締役。1962年神奈川県鎌倉市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、キリンビール株式会社に入社。国内ビール営業を経て、人事部人材開発室ニューヨーク駐在、医薬事業本部海外事業担当などに従事。
1999年、創業者であった父の急逝により株式会社 湯佐和を引き継ぐ。40億円という莫大な負債を抱え倒産寸前の会社を16年かけて再生。現在は神奈川県下で、14店舗の飲食店を経営し、これまでの経験から、「あきらめなければ道は拓ける、朝の来ない夜はない」をテーマに講演活動等を行っている。経営学修士、認定レジリエンス・トレーニング講師。
【本文より抜粋】
「5年だけ」の勝負―あきらめるのは、まだ早い!
グループ33店舗にたつた2人の店長
 私が会社を引き継いだとき、湯佐和は主力の海鮮居酒屋のほか、
牛丼の吉野家のフランチャイズ店、洋風居酒屋、回転寿司、カラオケ、サウナ、雀荘など、なんでもありの33店舗を展開していた。当時、日本全国にこういう会社は多かった。経営ノウハウやその分野への情熱もなく手当たり次第に事業を広げている場合も多く、うちのようにうまくいかないところも多い。
 
しかし、湯佐和の場合はそれ以前に、組織の体をなしていなかった。
まず、店長が2人しかいなかった。店舗は33あるのに、店長は2人。
明らかにおかしい。性格も大人しく、強いリーダーシップを発揮するタイプにも見えない2人が、押しつけられた便利屋のような格好で、全店舗の店長を兼任していた。
つまり、店舗は実質的に「自動営業」―要するにほったらかしだった。
各店舗には、スポーツ新聞の三行求人広告《板前急募》で集めた流れ者の板前が2~5人ほど常駐し、金銭管理とお客様対応は、責任感の強いパート社員の女性に押し付けられていた。
売り上げ20億の企業を統括する本部は、前述のとおり、女性事務員Fさんが唯一の社員だった。営業部長も経理部長も総務部長もいない。幹部社員と呼べるのは、そのFさんと2名の店長だけだった。私はこの状況に唖然とした。いくら父が超ワンマン社長だといっても、この体制は酷すぎる。よく機能していたものだ。
Fさんに尋ねると、これには事情があった。父の亡くなる数年前に営業部長と管理部長が揃って退職し、近隣でうちと同じような居酒屋をオープンさせたという。その店が大成功をおさめ、5店舗まで拡大していく中で、湯佐和から子飼いだった店長や調理長を引き抜いていったのだった。すでに65を過ぎていた父は。どれだけ悔しかっただろう。
しかも、当時の顧問税理士は、ほとんど税務申告の捺印のみの付き合いだったので、こんなピンチでも頼りにならなかった。私か相談をもちかけても、「私もよく把握していないのです」というばかりだった。
 
翻ってリーダーシップをとるべき私自身はというと、これも頼りにならなかった。飲食業界の経験なし、マネジメント経験なし、自社への理解なし―の三拍子が揃っていた。
 
ひたすら飲食業から逃げていたため、学生時代のアルバイトの経験もない。接客も調理もできないし、知らない。
 
キリンビールには12年勤めたが、大企業ゆえ、多くの部下を動かした経験はなかった。
 
何よりも、私は自分の引き継いだ会社のことを何も知らなかった。借金の額が大きいこともそうだが、これほど何も知らない後継者というのも特殊なケースだと思う。
 
だから、私にはリーダーとしての威厳も信頼もまったくなかった。
 
飲食業も経営もド素人の跡取り息子が突然、社長としてやって来たのだ。信頼なんてあるはずもない。しかも、私は、目の当たりにした会社の実情を社員に一切知らせていなかった。今潰れてもおかしくない会社だよと、わざわざ社員に伝える勇気は持ち合わせていなかった。
 
会社には、いわゆる抵抗勢力になる人たちすらもいなかった。私のやることに対して、「先代の意向がどうのこうの」と反対する古参の幹部もいなかった。
 
最初から見て事情を知っているFさんだけは私を信頼してくれたが、それ以外には本当に「誰もいない」ような感じだった。そこは、会社と呼べるのかも怪しい場所だった。
「最悪の事態を紙に書き出す」
 
ようやく行動に移さなくてはいけないと肚を括ったものの、40億円という借金を思うと途方に暮れてしまい、なかなか行動に移せない。やはり真正面から向き合うのは怖いからだ。そこで私はまず、最悪の状況を明確にイメージすることにした。
 
頭の中で恐怖を肥大化させては怖がるのに疲れ果てたで、“最悪の最悪”の場合にはいったいどんな酷いことになるのかを、できるだけ具体的に、思いつくかぎり紙に書き出してみたのだ。要は、「破産計画」を立案した。
 ・破産するとなると、破産処理にかかる費用をどうするか?
 ・取引業者の連鎖倒産を防ぐにはどうするか?
 ・自己破産の後は、どこに住んでどうやって収入を得るか?
 ・どの時点で、経営の続行を諦めて破産処理に移行するか?
 経営続行を諦める時期に関しては、ヤミ金融や商工ローンやシティローンに手を出さなければいけない段階になったら、そこを限度に最終計画に入ろうと決めた。
 
こうして冷静に考えて書き出してみれば、「ただ破産するだけ」だ。
 
辛い思いはするだろうし、家族や関係者に大変な迷惑をかけることになるが、命をとられたりはしないだろうし、夜逃げをすることもないだろう。
 
連鎖倒産を防ぐためには、最終計画に入るとき、会社に残っている資金を連鎖倒産の可能性がある会社から優先的に払おうと決めた。
 
自宅は、私がサラリーマン時代に横浜市に建てた家だったが、連帯保証人として取られることは間違いない。そうなったら地元にいるのは嫌だから、温泉のある湯河原町あたりに住もうか。それとも今の家からもう少し近い二宮町あたりにしようか……そんなことを考えながら、インターネットの不動産サイトで家賃などを調べもした。
 
こんなふうに具体的に計画を立ててみると、思いのほか気が楽になった。「こんなものか」とすら思った。いっそ、今すぐに破産処理に移行したい衝動に駆られるほどだった。
 
倒産したらどうなるのかと漠然と頭で考えているときは、不安がどんどんと大きくなり、悪い想像が膨らんだ。自分では止められないほど、荒唐無稽なレベルにまで不安は増大していった。
 
しかし、冷静に書き出してみると、粛々と処理できる気がしてきた。
 
不安や恐怖をむやみにこねくり回すより、不安や恐怖の原因と対象をしっかり見つめることで、精神はかなり落ち着きを取り戻せるようだった。
「がんばる期間は5年限定」
 
もうひとつやったのは、期限を定めたことである。
 
私が抱えている借金は、完済まで最低でも80年かかる額の借金だ。債務超過の解消でも50年かかるのだから、まともに考えていたら心が折れる。そんなゴールのことまで考えると、一歩も踏み出せる気がしない。
 
だから期限を区切り、一定の期間だけ必死にやろうと決めた。その間だけは、どんなに辛くても、屈辱的であっても(板前に「謝れ」といわれようが、金融機関に行って無駄に「頭を下げろ」といわれようが)、目の前のことに集中しようと決めた。そして、その期間を「1827日」とした。
 1827日とは、つまり5年間のことである。
 365日×5年+2日=1827日
 
足している2日は閏年2月29日の2日分である。こんなことにまで頭が回る自分を当時は不思議に思わなかったが、肚を括った結果の不思議な冷静さの表れだろう。こうしようと決めた時点で、それだけの心の余裕ができていたのだ。
 これに付随して、3つのルールもつくった。
 ・5年の間、たとえ借金が減らなくても、逆に増えたとしても気にしない。
 ・とにかくこの5年間は、会社を継続することだけに専念する。
 ・5年経って状況が何も変わっていなければ、最終計画に従って会社を清算する―。
 
現実から目を背け逃げ続けていた私に、ようやく立ち向かう覚悟ができたのである。
 
今になってわかるのは、一番危険なのは、覚悟が定まらず迷っているときだということだ。肚を括って一歩踏み出すのは、1日でも早いほうがいい。肚を括る前のほうが、恐怖は大きかった。
何か増えても、日数だけは確実に減っていく
 
この5年のために、1827日分の《日めくりカレンダー》を作った。妻にも手伝ってもらい、手作りで作成した。そしてそれを、寝室に置いた。
 
「今日も会社は潰れなかった」「今日もなんとか乗り切った」「自分も会社も、まだ生きている……」そう思いながら、就寝前にカレンダーを1枚めくることで、明日への思いを強く保つことができた。
 
布団に入る直前に、「ああ、今日も1日終わった、あと1800日だ」と紙をめくるそのときだけは、心が軽くなった。
 
辛く屈辱的なことかあっても、とにかく1日は終わるのだ。