Dead Rock
それは文化の敗北なのである
独りファシズムby Yukino 政治・経済より
http://alisonn.blog106.fc2.com/blog-entry-477.html
それは文化の敗北なのである
独りファシズムby Yukino 政治・経済より
http://alisonn.blog106.fc2.com/blog-entry-477.html
関東各所で児童の尿をサンプリングしたころ、内70%からセシウムが検出されたのだが、かくも濃厚に悲劇
の徴候が立ち込めているのであり、
来るべき言論統制法がそのような
事実の隠蔽を目的化していることは明らかだろう。
すなわち社会は暴力的手段をもってしか、経済も秩序も維持できなところまできているわけだ。
なお、拙ブログは「秘密保全法案」の成立をもって閉鎖する予定であり、残された時間の中で出来る限りを綴っていきたいと思う。
児童の被曝は日々ごと累積するばかりであり、この現実に対してはいかなる理説も宗教も哲学も無効なのであり、
つまりこの国は政治や報道が無化しているだけでなく、言論や思想や芸術など文化資本の全てが腐乱しているのであり、
右翼団体や左翼グループや医師会や日教 組や弁護士会などあらゆる思考集団が退廃しているのであり、
国民の人格という内面資産が凍結しているのであり、つまるところ原子炉崩壊とは人間崩壊がもた らした必然であり、その象徴的事実に過ぎないのかもしれない。
「国家の品格」だの「悩む力」だの「大人の流儀」だの「人間の器量」だの偉そうなことをぬかしたところで、
文芸者はこのような破局事実に一斉口を閉ざすのであり、そもそも人間性の欠如した知性にいったいどれだけの価値があるというのか?
「論 壇」という前近代的な言論空間でも原発問題は禁忌のようで、天下国家がどうしたこうしたと壮語を発してきた連中は放射能の’ホ’の字すらはばかるのであり、
つまり超大権力にはひたすら媚びるのであり、それはもはや痴呆老人が集団で自慰をする変態クラブのようなものだろう。
巨大メディアが 第三権力だとすれば、それにつぐマス伝達力を誇るロックは第四権力であるのだけれど、
「この件」についてはエーちゃんも、氷室さんも、布袋くんも、ラルク も、Glayも、B‘Zもスルーなわけだ。
ロック(叫び)の時代だからこそメッセージを託して欲しいと思うのだが、結局のところ全ては商行為であり、経済 合理に帰結するのであり、
すなわちこの国においてノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)は成立し得ない。
もっとも、この瞬間にも 膨大な若い生命が放射線に犯されながら、下品なバラエティ番組に腹を抱えて笑っているのが我々という群像だ。
すでに福島での甲状腺ガンの疾患率は平時の 100倍以上に達し、しかも臓器への転移すら報告されているのであり、
そのような悲惨の進行にかかわらず、衆愚はまんまと五輪招致というスペクタル(見世物)に幻惑されている。
繰り返すが、スタジアムだの選手村だのに費やすカネを避難に用いれば、いったいどれだけの命が救えるのだろうか?
そのように単純な仮説を立てることができないほど、我々は最低限の知性も人間的な反抗精神も喪失しているのではないのだろうか?
高線量地域に放置された東北の児童は一昨年からずっと疎開を求め、訴訟に望みを託していたのだけれど、それを平然と棄却するのがこの体系のシステムであり、
つまり本質として我々は議会制度民主主義を担保とする自由社会の住人ではなく、コーポラティズム(資本と政治の共同主義)に抑圧されるディストピアの囚人であるのだ。
おそらく、それこそが「全体主義は人間の構成に絶対必要な言語とその意味を剥奪する」とル・ゴフが洞察した「柔らかい野蛮」 の具現であり、つまりメディア装置が繰り返す執拗な知性の浸潤なのであり、
人間性の退行を手段とする統治なのであり、換言するならば知覚で捉えられない ファシズムなのだと思う。
自分は3.11直後に東京ドームのオープン戦でドンチャカやっている3万人のバカどもをみて、「もうこの国はな んでもありだ」と激しく確信したのだが、その後は汚染ガレキがそこら中にばら撒かれ、
核を孕む食品が全国規模で流通し、挙句に膨大な汚染水が太平洋に及 び、世界中に憎悪が燃え広がっているのであり、結局のところ暗澹のヴィジョンはことごとく成就している。
このような民度なのだから、徴兵 制が施行されたところで我々はそれを意味化することも概念化することもできず従順に受け入れるのだろう。
しかしそれは生命が管理され、データーベース化され、さらにランク付けされ、国家統制のもとに自由決済される、新たな「優性主義」の到来なのである。
国家は「徴兵キャンペーン」を電通へ委託し、秋元某プロデュースのもと学徒動員よろしくA●B48がさいたまスーパーアリーナで壮行会を開催するのであり、歌い踊りながら貧困層の若者を極東有事や原発の収束作業へ送り出す狂った未来が幻視されるのだ。
映 画「セブン」でブラッド・ピットの相棒役に扮したモーガン・フリーマンが、「あまりにも世界が残酷であるため彼女を堕胎させた」と告白するシーンが印象深 く残っているのだけれど、
これから家庭をもつ次世代またすでに子供をもつ現世代ともに現実を深く知るにつれ、「この世界に生命を繋ぐことが善であるの か?」という自問を無限に繰り返すのだと思う。
結局のところ軽薄な社会は近視眼的な利益を優先し、未来である子供を破壊しているのであり、「無関心は悪の共犯である」という言葉のとおり、もし貴方がこのまま沈黙を続けるのであれば、
それは人類史上最悪となる構造的暴力への加担を意味するのではないのだろうか。
来るべき言論統制法がそのような
事実の隠蔽を目的化していることは明らかだろう。
すなわち社会は暴力的手段をもってしか、経済も秩序も維持できなところまできているわけだ。
なお、拙ブログは「秘密保全法案」の成立をもって閉鎖する予定であり、残された時間の中で出来る限りを綴っていきたいと思う。
児童の被曝は日々ごと累積するばかりであり、この現実に対してはいかなる理説も宗教も哲学も無効なのであり、
つまりこの国は政治や報道が無化しているだけでなく、言論や思想や芸術など文化資本の全てが腐乱しているのであり、
右翼団体や左翼グループや医師会や日教 組や弁護士会などあらゆる思考集団が退廃しているのであり、
国民の人格という内面資産が凍結しているのであり、つまるところ原子炉崩壊とは人間崩壊がもた らした必然であり、その象徴的事実に過ぎないのかもしれない。
「国家の品格」だの「悩む力」だの「大人の流儀」だの「人間の器量」だの偉そうなことをぬかしたところで、
文芸者はこのような破局事実に一斉口を閉ざすのであり、そもそも人間性の欠如した知性にいったいどれだけの価値があるというのか?
「論 壇」という前近代的な言論空間でも原発問題は禁忌のようで、天下国家がどうしたこうしたと壮語を発してきた連中は放射能の’ホ’の字すらはばかるのであり、
つまり超大権力にはひたすら媚びるのであり、それはもはや痴呆老人が集団で自慰をする変態クラブのようなものだろう。
巨大メディアが 第三権力だとすれば、それにつぐマス伝達力を誇るロックは第四権力であるのだけれど、
「この件」についてはエーちゃんも、氷室さんも、布袋くんも、ラルク も、Glayも、B‘Zもスルーなわけだ。
ロック(叫び)の時代だからこそメッセージを託して欲しいと思うのだが、結局のところ全ては商行為であり、経済 合理に帰結するのであり、
すなわちこの国においてノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)は成立し得ない。
もっとも、この瞬間にも 膨大な若い生命が放射線に犯されながら、下品なバラエティ番組に腹を抱えて笑っているのが我々という群像だ。
すでに福島での甲状腺ガンの疾患率は平時の 100倍以上に達し、しかも臓器への転移すら報告されているのであり、
そのような悲惨の進行にかかわらず、衆愚はまんまと五輪招致というスペクタル(見世物)に幻惑されている。
繰り返すが、スタジアムだの選手村だのに費やすカネを避難に用いれば、いったいどれだけの命が救えるのだろうか?
そのように単純な仮説を立てることができないほど、我々は最低限の知性も人間的な反抗精神も喪失しているのではないのだろうか?
高線量地域に放置された東北の児童は一昨年からずっと疎開を求め、訴訟に望みを託していたのだけれど、それを平然と棄却するのがこの体系のシステムであり、
つまり本質として我々は議会制度民主主義を担保とする自由社会の住人ではなく、コーポラティズム(資本と政治の共同主義)に抑圧されるディストピアの囚人であるのだ。
おそらく、それこそが「全体主義は人間の構成に絶対必要な言語とその意味を剥奪する」とル・ゴフが洞察した「柔らかい野蛮」 の具現であり、つまりメディア装置が繰り返す執拗な知性の浸潤なのであり、
人間性の退行を手段とする統治なのであり、換言するならば知覚で捉えられない ファシズムなのだと思う。
自分は3.11直後に東京ドームのオープン戦でドンチャカやっている3万人のバカどもをみて、「もうこの国はな んでもありだ」と激しく確信したのだが、その後は汚染ガレキがそこら中にばら撒かれ、
核を孕む食品が全国規模で流通し、挙句に膨大な汚染水が太平洋に及 び、世界中に憎悪が燃え広がっているのであり、結局のところ暗澹のヴィジョンはことごとく成就している。
このような民度なのだから、徴兵 制が施行されたところで我々はそれを意味化することも概念化することもできず従順に受け入れるのだろう。
しかしそれは生命が管理され、データーベース化され、さらにランク付けされ、国家統制のもとに自由決済される、新たな「優性主義」の到来なのである。
国家は「徴兵キャンペーン」を電通へ委託し、秋元某プロデュースのもと学徒動員よろしくA●B48がさいたまスーパーアリーナで壮行会を開催するのであり、歌い踊りながら貧困層の若者を極東有事や原発の収束作業へ送り出す狂った未来が幻視されるのだ。
映 画「セブン」でブラッド・ピットの相棒役に扮したモーガン・フリーマンが、「あまりにも世界が残酷であるため彼女を堕胎させた」と告白するシーンが印象深 く残っているのだけれど、
これから家庭をもつ次世代またすでに子供をもつ現世代ともに現実を深く知るにつれ、「この世界に生命を繋ぐことが善であるの か?」という自問を無限に繰り返すのだと思う。
結局のところ軽薄な社会は近視眼的な利益を優先し、未来である子供を破壊しているのであり、「無関心は悪の共犯である」という言葉のとおり、もし貴方がこのまま沈黙を続けるのであれば、
それは人類史上最悪となる構造的暴力への加担を意味するのではないのだろうか。