浅野総一郎の人生から学ぶ【九転十起の起業家ブログ】

浅野総一郎の人生から学ぶ【九転十起の起業家ブログ】

起業を目指す30代です。
渋沢栄一を尊敬しています。そして浅野総一郎も好きになりました。

業家である渋沢栄一は、日本の武士でもある人物です。大きな功績を残してきた人物で、浅野総一郎との関わりもあります。

今回は、そんな渋沢栄一がどのような人物なのか、どのような功績を残してきたのか、浅野総一郎とはどのような関わりを持っているのかといった点についてみていくことにしましょう。

渋沢栄一はどのような人物なのか

まずは、渋沢栄一がどのような人物なのかみていきましょう。

渋沢栄一は天保11年2月13日に武蔵国榛沢郡血洗島村(現現在の埼玉県深谷市血洗島)に、渋沢家の長男として生まれました。幼名は栄二郎ですが、後から栄一郎、篤太夫、篤太郎と名乗っていました。

渋沢家の家業は畑作や藍玉の製造・販売、養蚕で、幼い頃はそれを手伝いながら父親から学問に関する手解きを受け、いとこである尾高惇忠からは論語などを本格的に学ぶなどしていたのです。

地元を離れてからは一橋慶喜に仕え、一橋家で家政の改善などをメインとなって行った人物でもあります。そしてその実力を認められるようになり、様々な場面で活躍をするようになっていきました。

渋沢栄一の功績

渋沢栄一が行った取り組みは大きな注目を集めることとなりました。続いては、いったいどのような功績を残してきたのかみていくことにしましょう。

家臣としての渋沢栄一

渋沢栄一は、一橋慶喜の家臣を務めた時代がありました一橋慶喜は禁裏守衛総督を朝廷から拝命したのですが、自前の兵力を持っていませんでした。

そのような状況の中で、渋沢栄一が領地の巡回を行い、農兵の募集をしたのです。

幕臣となってヨーロッパへ

慶応2年に一橋慶喜が将軍になったことを機に、幕臣になります。そしてパリで行われた万国博覧会へ将軍の名代として出席する徳川昭武の随員として出席することとなりました。

この時の肩書が、御勘定格陸軍付調役というものです。ヨーロッパでは先進的な産業や制度を目にし、近代社会の素晴らしさに感銘を受けました。慶応4年に新政府から帰国を命じられたため、帰国の途についています。

民部省や大蔵省での活躍

帰国してからは、フランスで学んだ株式会社制度を実践したり、新政府からの借金を返済するために勘定頭である平岡準蔵に相談して商法会所を設立したりしています。

明治2年には、民部省租税正の辞令書を受け、度量衡の制定や国立銀行条例制定などに携わりました。そして明治4年には、民部省が大蔵省に統合され、大蔵権大丞や大蔵大丞、大蔵省三等出仕などを務めています。

その後は、造幣寮の事務などを行い、明治6年5月7日に財政改革意見の関する建議を行い、建議書を『日新真事誌』などに掲載するといった行動も起こしています。

実業家としての渋沢栄一

大蔵省を辞職してからは、自身が設立した第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の総監役に就任し、日本初の銀行を創業するという功績も残しています。

それだけではなく、全国の国立銀行を立ち上げるための支援・指導を行ったり、第二十国立銀行を設立する際には相談役を引き受けたりしていました。

生まれ故郷である埼玉では、熊谷銀行(現在の埼玉りそな銀行)や黒須銀行(現在の埼玉りそな銀行)、武州銀行(現在の埼玉りそな銀行)の設立支援も行ったのです。銀行だけではなく、抄紙会社(現在の王子ホールディングス、日本製紙)を設立するための認可を得て、経営もスタートさせました。

瓦斯掛(現在の東京ガス)ではガス事業を計画したり、澁澤喜作商店の開業を支援したりといった実績も有しています。それ以外にも、東京海上日動火災保険や東日本旅客鉄道、太平洋セメント、キリンホールディングスなど様々な企業の創業に携わっている人物でもあります。

このことから、かなり大きな功績を残している人物だと言えるでしょう。

浅野総一郎との関わりについて

渋沢栄一は、浅野総一郎と関りがある人物でもあります。最後にこの2人の関わりについてみていくことにしましょう。

浅野総一郎は、浅野財閥を築き上げた実業家です。水売りやおでんやで儲けてある程度貯金ができた段階で横浜に向かい、竹の皮屋になりました。竹の皮屋として仕事をしている中で、父親の友人と偶然出会います。

そして、その友人にすすめられて薪炭商になったのです。薪炭商としてコークスやコールタールを横浜ガス局から買い、セメントの製造を行う深川セメント製造所に納めることで巨万の富を手にしました。払い下げとなった深川セメント製造所を浅野総一郎自身が買い取ったのが、浅野セメントの礎となっています。

払い下げは、浅野総一郎が行った仕事ぶりを見た渋沢栄一の後ろ盾があったからこそだと言われています。

まとめ

渋沢栄一は、様々な功績を残してきた人物だということを知っていただけたでしょう。実業家としての手腕もあり、多くの創業にも携わってきました。その頃創業した会社は今でも私たちの身近にあり、様々なサービスを提供してくれています。

浅野総一郎とのつながりもあることから、実業家同士のつながりがさらなる発展を生んでいることもよく分かるでしょう。

浅野総一郎の人生から学ぶ【九転十起の起業家ブログ】

起業を目指している自分にとって、尊敬する人物の一人である浅野総一郎氏は、台湾の高雄港の開発や日本の臨海工業地帯発展に大きく貢献した人物です。幅広い事業を手掛けた日本でも有数の実業家の一人ですが、その功績はあまり知られていません。

そこで今回は、浅野氏が高雄港開発に至るまでの経緯や、浅野氏の功績について詳しくご紹介していきたいと思います。

浅野氏の生い立ち

浅野総一郎氏は、1848年4月13日に富山県氷見郡薮田村にて浅野家の長男として誕生しました。若い頃から商売を始めるもなかなか上手くいかなかった浅野氏ですが、1875年に転機が訪れます。

処理に困っていた産業廃棄物をただ同然の安値で買取り、セメント製造の燃料として売却し巨万の富を得ることに成功したのです。そして、セメントにいち早く目を付けた浅野氏は、好条件で払い下げられたセメント製造所を浅野セメントとしたのです。

この好条件の払い下げには、渋沢栄一の後ろ盾がありました。その後、欧米に視察に行った浅野氏は、大型船も横付け可能な港湾設備や港湾施設に感嘆し、港湾の必要性を痛感し帰国しました。

また、この欧米への視察前に台湾の打狗山(後の高雄)で質の良い石灰石が出たとの情報を聞いており、今後台湾で事業を行うための先行投資として帰国後すぐに麓の土地を購入しています。

ここから、浅野氏と高雄の繋がりが始まったのです。

高雄湾開発の課程

浅野氏が58歳の時分に打狗湾埋め立て工事の許可が総督府から降りました。途中資金難や物資難もありましたが、打狗湾第一期工事によって規模は大きくないものの船舶を横付けできる港が完成したのです。そして大型の船も着岸できるよう考慮された第二期工事が終わり、第三期工事に着手しましたが、戦争によって日本統治時代に完成することはありませんでした。

しかし、これまでの港湾整備によって高雄の農産物や工業製品が直接積み荷できるようになったことにより、住む人が増え打狗は工業都市として大な成長を遂げたのです。

台湾での功績

1913年には打狗運河が完成しさらに利便性が上がった台湾で、1917年に浅野セメント打狗工場を作り、打狗山で取れた質の良い石灰岩を原料としたセメントを、鉄道や港を利用し台湾全土にセメントを供給しました。

その結果、台湾のセメントの約8割を賄うほどのシェアを誇り、台湾の近代化と発展に大きく寄与しました。

さらに、水力発電所の完成により電力安定供給できるようになると、台湾を代表する産業都市として重要な土地となりました。こうして浅野氏の尽力によって打狗港は今日の高雄港として、台湾を代表する港湾となったのです。

そして、1920年の台湾州制によって打狗から高雄と変更され、現在においても都市名は高雄です。

臨海工業地帯開発の父としての浅野総一郎

日本の港湾は利便性に欠けるとの思いから、5年にも及ぶ実地調査によって作り上げた鶴見川崎地先の界面埋め立てについての事業許可申請を神奈川県庁に提出しました。15年もの歳月をかけて無事完成したこの埋め立て事業を、人々は「浅野埋め立て」と呼びました。

そして、浅野氏は日本でも脅威とも思われるスピードで、さまざまな会社を作っていきます。浅野造船所・浅野ブロック製造・秩父セメント・旭コンクリート工業・浅野スレート販売など、銀行以外の全ての業種は設立したと言われるほど、幅広い事業を展開したのです。

その後第一次世界大戦が開戦すると、戦時特需や物資の輸送によって、巨大な利益をあげ「浅野財閥」が作られていきました。

また、浅野埋め立てと言われる鶴見川崎間には、浅野セメントを始め、日本鋼菅や旭硝子、日本製粉などさまざまな企業が続々と進出したことによって京浜臨海工業地帯の中核と成長を遂げました。このことにより、浅野氏は日本の臨海工業地帯開発の父と呼ばれるようになったのです。

浅野氏の生涯

高雄湾と日本の発展に大きく貢献した浅野氏は、ドイツ出張中に倒れてしまいました。帰国後に食道がんと肺炎により82歳でその生涯に幕を閉じました。

若い頃はなかなか商売の上手くいかなかった浅野氏ですが、諦めることなく自らの夢を実現するべく生きた人生だったといえるでしょう。実業家として埋め立て事業を成功させ、台湾では高雄港開発に尽力した日本人として足跡を残しました!

浅野氏がいたからこそ、高雄港は今日でも台湾を代表する国際貿易港としての地位を確固たるものにできたのです。
また、日本では臨海工業地帯開発の父とも呼ばれるほど多大な功績を残しています。


七転び八起きより二回も多い、九転十起の男と呼ばれるようになった浅野総一郎氏の高雄港開発に至る過程や、残した功績について紹介しました!

これほど大きな功績を残しているにも関わらず、浅野氏を知っている人が少ないのは残念でなりません。多くの失敗し、波乱万丈な人生を送りながらも、諦めることなく前に突き進み続けた浅野氏は、企業を目指している自分にとって参考になる部分がとても多い人物の一人なのです。


浅野総一郎の人生から学ぶ【九転十起の起業家ブログ】

起業を目指すきっかけの一つに、感銘を受け、尊敬する人物との出会いがありました!渋沢栄一、安田善次郎とともに京浜工業地帯の開発を進めたのが浅野総一郎氏でした。その浅野氏についてご紹介していきたいと思います。

映画「九転十起の男 浅野総一郎の青春」

“日本のセメント王”“京浜工業地帯の父”などと呼ばれた浅野総一郎の半生を描いた映画「九転十起の男 浅野総一郎の青春」を観た感想は「とにかくエネルギッシュ」というものです。


浅野氏の取り組みは“日本初”のものが多く、そして今でも残っているものが多いという特徴があります。

渋沢栄一や安田善次郎から信頼を得ていたことからも、その偉大さがわかります。こういった偉人伝のような作品はドラマチックな人生に演出されがちですが、浅野氏の場合は大げさでなく本当に波乱万丈だったといえるでしょう・・・

 

参考記事:皆さん、浅野総一郎ってご存知ですか?~九転十起の男 -浅野総一郎の青春~

浅野総一郎の基本情報

1848年、現在の富山県で町医者の家に長男として生まれた浅野氏は、海運業者である銭屋五兵衛に憧れ、大商人になることを目指します。15歳になると商売を始めますが、織物やしょう油、農機具のレンタルなど次々と手を出しては失敗を繰り返し、多額の借金を抱えてしまいます。

24歳で逃げるように東京へ出てきた浅野氏は、砂糖を溶かした水を売る「冷やっこい屋」を始めました。儲けが出ると、竹の皮や薪炭、石炭へと事業を展開していきます。

1873年に横浜で薪炭石炭販売所を開き、横浜市営ガス局が処分に困っていたコークスやコールタールの払い下げを受けるようになってから転機が訪れます。

コークスは燃料として、コールタールは消毒用の石灰酸として売り込みに成功したのです。実業家として歩み始めた浅野氏は1876年、当時第一国立銀行頭取・のちの王子製紙となる抄紙会社社長の渋沢栄一と出会います。

抄紙会社との石炭取引で渋沢栄一と知遇を得た浅野氏は、官営のセメント製造所の払い下げを受け、浅野セメントの前身となる浅野工場を設立します。これは、渋沢栄一はもちろん、同郷だった安田善次郎からの強力なバックアップがあったおかげでした。

浅野氏・渋沢栄一・安田善次郎の3人はその後も協力し合いながら多くの事業を展開していくことになります。

京浜工業地帯の開発

セメント事業の他にも炭坑や汽船などの経営を行っていた浅野氏でしたが、もっとも力を入れていたのが東京湾の埋め立て事業でした。

当時、横浜から東京へ荷物を運ぶには手こぎの小舟しかなく、手間や運賃の高さが問題となっていました。浅野氏は、東京~横浜間の遠浅な海岸を埋め立て、大型船が着岸できる工業地帯とする計画を立てます。

1899年に東京府知事宛てに品川湾埋立出願を、1904年には神奈川県庁に鶴見~川崎間の埋立出願書を提出しますが、これまでにない発想や規模の大きさから認可は下りませんでした。

しかしここで諦めないのが浅野氏でした・・・

「ここに作るのはただの埋立地ではない。動力と輸送路を一つのシステムとした工業地帯になるのだ」と、次のように訴えました。

  • 埋立地は大型船が着岸できる
  • 埋立地には幅の広い道路を設ける
  • 東海道本線とつなぐ鉄道を敷く
  • 工業用水や電力も供給する
  • 埋立地同士の間には運河を掘る
  • 完成すれば「浅野セメント」も移動する

こういった輸送路の提供も含めたシステムとして開発を行い、分譲すると説得することで渋沢栄一や安田善次郎はもちろん、横浜の豪商や徳川家からも出資を得るのです。とにかくエネルギッシュな浅野氏は埋立地開発に必要なすべてを自分で揃えてしまいます。
京浜工業地帯は浅野氏の情熱によって完成するのです。

 

しかし、苦労もありました。

インフラ整備については「公」の領分だったために、水道や電気の引き込みに時間がかかります。造船所を開業させた1917年、浅野氏は私営の水道を申請したものの、会社は買収され横浜市から給水を受けることで1929年、営業開始となります。電力については足柄上郡の落合に水力発電所を自ら設けて引いていました。

京浜工業地帯は大規模な工業地帯とはいえ、多くの人は東京の深川などの方が便利で伝統があるという認識でした。この位置づけが大きく変わったのが関東大震災です。

深川などの工業地帯は震災により大打撃を受け、壊滅状態に陥ってしまいました。しかし、埋立地であった京浜工業地帯はほとんど被害を受けなかったのです。

これをビジネスチャンスととらえた浅野氏は企業誘致に乗り出します。結果、三菱石油・東京電灯・日清製粉・日本石油・旭硝子など、多くの企業が移動してきました。

偉大な実業家・浅野総一郎

一時期は50以上もの企業を束ねていた浅野氏のモットーは「1日4時間以上寝ると人間はバカになる」でした。徹底した現場主義だった浅野氏は82歳で亡くなるまで毎日精力的に業務をこなしていたそうです。若いころは失敗続きだったものの、商売の勘や流行を見抜くセンスは持っており、最終的には七転び八起きならぬ“九転十起”と称される偉大な実業家となった浅野氏は1930年、82歳の生涯を閉じました。

浅野総一郎に興味を持ち、その実績をさらに調査した結果、波乱万丈な人生と偉業の数々に本当に驚かされました。

起業を目指す自分にとっては参考になる部分を多く持っているので、これからも夢を諦めずに突き進んでいこうと思います。


浅野総一郎の人生から学ぶ【九転十起の起業家ブログ】

私は『九転十起の男 -浅野総一郎の青春』という映画で知りましたが、日本経済の礎を構築した人物と言っても過言ではありません。「九転十起の男」と呼ばれるくらい苦労に苦労を重ねる中で、日本の発展のために尽くし、大変感銘を受けました。

 

 

浅野総一郎については、多くの書籍などでも書かれていますし、映画やドラマの題材にもなっています。このブログでは、日本が誇る実業家「浅野総一郎」について紹介していきます。

 

映画「九転十起の男 -浅野総一郎の青春」とは?

私が知るきっかけとなった映画です。私は年間に100~200本ほどの映画を観るくらい映画鑑賞が大好きで、邦画、洋画問わず見ます。しかし、歴史映画では「のぼうの城」や最近だと「関ヶ原」など観ましたが、ほとんどが近代前の映画ばかりで、近代以降についてとりあげた映画はこれまであまり観る機会がありませんでした。

この映画を観たきっかけ

この映画を観たきっかけは、主演の網本圭吾さんです。ちょうど同時期に公開されていた「逮捕~オレは何もやってない!」に出演されていて、素敵な俳優さんだなと(^^) 正直、映画の内容については、微妙だったんですけどね・・・。映画の内容的にも全然異なる感じがしたのでたまたま観てみたという感じでした。

 

監督やキャストは?

監督:市川徹

原作:新田純子
キャスト:網本圭吾、寺田農、仲代奈緒、武蔵拳、六平直政、高瀬秀司、堀田眞三、伊藤裕子

 

綱本さんは、市川監督の作品に出ているような感じがします。こんなサイトがありました。

 

★網本圭吾が出演した映画ランキング★

1位:だからワタシを座らせて。 通勤電車で座る技術!

2位:九転十起の男 浅野総一郎の青春

3位:九転十起の男2 〜激動編〜

4位:逮捕〜オレは何もやってない!

 

やっぱり市川監督作品が多いですね。というか市川監督のみでしたね(笑)

 

映画の内容は?

映画の内容自体は、浅野総一郎の半生を時代を追いながら描いてましたが、正直あまり面白さはないんですよね。私が映画が好きということもあって、ここでは映画寄りの話になってしまいましたけど、映画が良くて浅野総一郎が好きになったというよりは、たまたま映画で浅野総一郎を知って、その後色々調べていく中で好きになっていきました。私もいち起業家として刺激をもらったという形です。

★映画「九転十起の男 浅野総一郎の青春」の情報★

 

次回以降は、もっと浅野総一郎について書いていこうと思います。是非、知らない人にも知ってほしい!