日経新聞の円安に関する記事に
ミスター円といわれた榊原元財務官の回想がありました
私がよくここで話題にする
1998年4月10日の大規模円買いドル売り介入の時の
財務官です。
元財務官の榊原氏「為替介入は難しい」 円20年ぶり安値: 日本経済新聞 (nikkei.com)
少し抜粋
――円買い介入は相場下落を止められるのでしょうか。
「円高を止めるのは簡単だが、円安を止めるのは結構難しい。(為替介入で)円安を止めるにはドルを売らないといけないが、外貨準備高の限界がある。私もそういう介入をやったことがあるが、外準の10分の1を使ってしまって『あと9回しかないじゃないか』と思ったことはあった」
抜粋終わり
説明します。
円高を止める ドル買い円売り介入は
外貨準備が増えます。円はいくらでもあるので
事実上無限に実施可能
あとは、米国がどこまで許容するかという政治の問題です。
しかし、円安を止めるドル売り円買い介入は
外貨準備のドルを使うので、外貨準備が尽きたらそこまで
だから榊原元財務官がいうように限界があります。
外貨準備の1/10を使ってしまったと榊原さんが言っていますが
正確には、わずか1日の介入で
外貨準備を1/10使ったのです。
1998年4月10日 投機筋の猛烈な円売りに対抗するために
史上最高額の外貨準備を為替介入に使いました
しかし 結果は 全く効果なく・・・・
「大蔵省(現財務省)はビビッて介入をやめてしまった」
為替ディーラーの間ではそうささやかれていました。
その時の 財務省の財務官が榊原さん
実際の為替介入の実行をしたのが、
当時の国際金融局長の黒田さん(現日銀総裁)でした。
当時私は、銀行のディーリングルームの
インターバンクチームのチーフディーラー
そうです、実際の為替介入を実行した当事者です。
もういいですかね・・・
為替介入は絶対に守秘すべきことでしたが
私のディーリングルームの デスクには
赤い色のランプが二つありました
電話がかかってくるとそのランプが点灯
そのランプがボタンになっていて
ボタンを押して直通電話がつながります
このランプは各ディーラーのデスクにはみんなありますが
一つはインターバンクチーフの私しか取れないボタン
もうひとつは私の上司の次長しか取れないボタン
私がとるのは日銀のホットライン
上司がとるのは大蔵省(財務省)のホットラインでした
ほかの人間がとることは原則許されないホットライン
為替介入は 財務省が決定して、日銀が実行します
なぜなら為替取引はインターバンクの取引だから
日銀と市中銀行の取引となるからです
ゆえに、為替介入があるときは
日銀のホットラインの赤いランプが点灯
その瞬間、ディーリングルームに緊張が走ります
その電話を私がとり。日銀からの注文を受けて
例えば「為替ブローカーを通じて20百万ドルドルを売ってください」
「インターバンク取引で他の銀行に直接20百万ドル売ってください」
という感じです。
そして私は、それをドル円デスクに指示を出す
そうして為替介入は行われます。
しかし 1998年4月の
1日で日本の外貨準備の1/10使った大規模介入の日
日銀のホットラインのランプは点灯しませんでした。
かわりに点灯したのが大蔵省のランプ
大蔵省のランプは、市場の状況をヒアリングするのに
わりと頻繁にかかってきていたので
まあ この状況だし ヒアリング入るよね と感じたのを覚えています
そのあと、ホットラインで話していた次長に私が呼ばれ
「MOF(大蔵省)が、500本(1本が1百万ドル)ドル売ってくれと
言っているんだよ。売れるか?」
500本=500万ドル 1ドル130円として650億円
聞いたことない1回の介入としては巨大なロット
私は
MOFが売れというのなら売りますよ
但し、J(BOJ=日銀)はいいんですか?
ああ MOFからJに話はついていて
後で、介入の明細をJに伝えればいいということになっている
そうして、狂乱の一日が始まりました
対顧客や銀行間取引の通常業務をやりながら
それとは別に介入をやり続ける
全権指揮官の私は髪を振り乱し一日中怒鳴りまくっていました
結局 その日 日銀のランプは点灯しないまま
MOFから直の500本の注文と
後の二回は1,000本
我が銀行だけで合計2,500本=3,250億円の介入でした。
その日はいろんな銀行に介入が入り
トータル2兆6千億円外貨準備を使ったようで
これは当時の外貨準備の1割に相当します。
1ドル130円ちょうどから介入を始めて
東京市場が終わりロンドン時間まで介入をして
結局下がったのは127円40銭まで
どさくさ紛れにちゃっかり自分のドルショートポジションを持っていて
(当然です 商業銀行の為替ディーラーだから)
さがらんなあ と思って 自分のポジションを買い戻したのが
安値の127円40銭だったので はっきり覚えています。
翌朝、ドル円レートは もう130円を超えていました
介入効果は1日ももちませんでした
日本の外貨準備の1割を使ったのに・・・・
そして介入はぱたりと止み
ドル円は148円まで円安が進み
大蔵省が米国財務省に頼み込んで
ニューヨーク時間にFRBが日銀の代理介入をやってくれて
円安はやっと止まったのを鮮明に記憶しています。
余談ですが・・・・
私がいたディーリングルームは
NHKの遠隔操作のカメラが据え付けられていて
為替相場が荒れたら テレビのニュースの画面に
よく映っていました
髪を振り乱して大立回りで叫びまくっていた私の姿が
ばっちりお昼の全国ニュースで流れていたようで
私のうちでは 子供たちがお父さんだー
と喜んでいたらしいですが
熊本の田舎に帰った時
幼馴染のお米屋さんに
「大変な仕事しとるね ニュースで見たよ からだ きいつけんばね」
と言われました・・・・
私の身体と記憶には
円安の恐怖が刷り込まれています
怖いですよ 自国通貨が売られて 止まらなくなるのは・・・
もう24年も前の話ですけどね
もう時効でしょう 話してしまいました (笑)
35歳の時か・・・
ちょうど私の息子の今の歳ですね
懐かしい想い出
ご参考
1998年4月 日本がヘッジファンドに屈した日 | 相場残日録(元相場師天の日記) (ameblo.jp)
以上
天