竹倉温泉伯日荘を訪ねてみた。


竹倉温泉は三島市郊外、緑に囲まれた静かな錦田の地にある昭和10年(1935)に開かれた温泉。

源泉は、鉄分と多く含んだ赤茶色の鉄泉で「赤湯」と呼ばれ、鉄分が多く含まれているので湯冷めしにくく、コリや痛み、美容にも効果があり、湯治場として親しまれている。

源泉は16℃~18℃の冷泉で、加温されている。

現在は水口旅荘、錦昌館、伯日荘の三つの温泉宿がある。


三島から南に向かい、国道一号線の三島警察署を南に下りていくと、左手奥には国立遺伝学研究所がある道沿いに竹倉温泉の看板が出てくる。


空を飛ぶ土竜


この看板に従って右に折れるとすぐ伯日荘があった。

空を飛ぶ土竜


しかし、玄関は締まっており、人気もない。休みかと思ったが、なんとなく荒れた気配が漂っている。


おかしいと思い、すぐ左手奥の錦昌館に顔を出して聞いてみると、もう数年休業していて、今後どうするかは分からないと言う。


歌人の柳原白蓮が幾度となく滞在し、三島の高僧玄峰老師もしばしば訪れ、その最期を迎えた温泉旅館である。白蓮と老師の交流もあり、白蓮の掛け軸もあると聞いていた。


白蓮が竹倉温泉・伯日荘を詠んだ歌に次のようなものがある。


寂しさのふところに入る心地して夕暮れにつく山の湯の宿

手をやみてみちよのいでゆ久々にとへばみ冬の部屋あたたかき

湯の宿のまどべに見する畑つくり美しきかな父と子と馬と


残念だった。

が、やむを得ず、帰ってきた・・・。





●蛇足かもしれないが、宮崎白蓮が玄峰老師との竹倉温泉、伯日荘での思い出を書いた文章が、『玄峰法師』(高木蒼梧/編著 大法輪閣刊)にある。


老師生前に単行出版のために寄稿を求められたもののようである。

老師と白蓮のまるで子供のように無邪気な様子がよく伝わって、ほほえましい文章である。以下に引用する。


 三島の伯日荘という温泉宿に宿っていた時のことでした。この宿の主婦は、私の歌の弟子で、いつでも来てくれと娘のように言ってくれるので、ちょうど左手の神経痛で、困っていた時でもあったし、それに温泉宿と言っても、ここは淋しい田舎、三島駅から自動車で十五分位の所なのに、そこはひどい田舎で、田と畑と、小さいお寺が近所にあるだけ、神経痛にきく温泉というのも、湧き出た時は冷泉で燃料をもって湧かす湯なのである。それが醤油のようなので、かえって、なるほど神経痛によくきくのかなと思わせられる。

 私の行った時、隣室に山本玄峰老師が来ておいでになった。宿の主婦みちよさん曰く、老師様はこのきたない粗末なお家が好きで、もっと立派な熱海温泉の方から昨夜も電話がかかって来て、老師様をお迎えしたい、自動車もって伺うからと言って来たのですよ、それに老師様はお断りになった御様子です。と嬉しそうだった。

 朝早くお風呂にはいると、湯気と薄暗いのとでわからなかったが、誰か一人の先客のはいっている様子、近づいてみると、何とそれは玄峰老師。びっくりした、田舎の粗末な温泉宿によくある風呂は男女混浴のものだった。朝早いせいかまだ誰もはいっていない二人きり、考えてみると七十の嫗、先方様は九十の翁、恥ずかしがるお互いでもないので失礼の段はご免蒙ることにして、落ち着きはらってお湯につかっていた。幸いなことにお湯は透明でないから、この貧弱な裸体は少しも相手に見えない、全く幼児のような老師様のお顔がいかにも楽しそうなので、私の方でものんびりとなり、友だちのような気安さで、「ねえ、老師様、私はあの“無門関”というのがとてもむつかしくて、われわれ共の手におえないものだと、頭からきめておりました。老師様の、“大法輪”にお書きになっているのを拝見して、よくわかりました。ほんとうに勉強になりました。有難うございます」と、申し上げたところ、何とまあ、老師様の仰言ることに、

 「あんなものみな嘘じゃよ・・・」私はびっくり仰天して、「へえ、それはまたどういうわけなのです・・・?」とおたずねしたら、老師様、きょとんとした態度で、、「禅というものはな、書いたり、聞いたりするものではないのじゃ」

 「あら、そんならどうするものなのですか」「心と心じゃわいな」私は頭をこつんと、どやされたような気がして思わず、お湯を老師様の頭からぶっかけた。するとまあ、何と憎らしい坊様。

 「おお、そうか、わるかったかい」何をぬけぬけとこの坊さん!

 翌日は又、このお湯の中の喧嘩だ。「あんた女という字を知っとるか?」うっかりその手にのるものかと、「いいえ、存じませぬのよ、老師様!女とはどう書きますのでございましょうか?」「教えてやろうか、女という字はな、こうしてこうやって、こう書くのじゃよ」老師様は指先で空に女という字を書いて見せる。「それ!一本一本みんな曲(いが)んでいるな」「あら!また!」私は口惜しくてしょうがないのでやけにぼちゃぼちゃとお湯を引きかきまわして大浪を起こした。

 昔、アダムとイブは、神様に叱られて、エデンの園を追われるまで、裸であることに気もつかなかった。それが平和な楽園を出て始めて、自分の裸であることが恥ずかしくなり、何か身にまとって裸体をかくしたという話が、ヤソ教の聖書に出ている。この温泉の風呂の中では、二人きりである男女であることすら忘れるのは、老師があまりに童心であるからだろう。



『三島文学散歩』(中尾勇/著 静岡新聞社刊)の記述もこの白蓮の文章を踏まえて書かれているが、「白蓮が玄峰老師に色紙を揮毫する。老師が見事な書を白蓮に贈る、その返礼に白蓮が沢地の竜沢寺に老師をねんごろに訪れるといった親交ぶりである」「(玄峰老師は)白蓮に果物やお菓子を惜しみなくわかちあたえながら、時にはあたりの人が誘いこまれるほどに明るい笑い声を白蓮とともに交わしあい楽しく人生を語りあっている」と、二人の間に親密な交流があったことを書いている。



● もうひとつ蛇足になるが、白蓮の略歴をメモしておきたい。


明治18年(1885)10月15日-昭和42年(1967)2月22日。

本名は燁子(あきこ)。大正三大美人のひとりと言われる。


空を飛ぶ土竜


東京に生まれる。父は伯爵柳原前光.。母、「おりょう」は外国奉行新見豊前守正興の三女だが、明治維新で没落し柳橋の芸妓だった。「おりょう」は伊藤博文の誘いをけって前光のもとへ飛び込んだと言われる。

燁子は大正天皇の生母である柳原愛子の姪に当り、したがって大正天皇の従妹にあたる。


妾の子であった燁子は生まれてすぐ、正妻初子に引き取られた後、品川の乳母くにに預けられ、十歳で柳原の家に戻る。


明治27年に北大路家に養女に出される。

しかし、許婚とされた資武はあまり感心できる人物ではなく、「お前は妾の子だ」と燁子の知らなかった出生の秘密を明かし、力づくで燁子を犯し、その後も執拗に燁子を求めた。燁子は資武を嫌い抜き、自殺まで図るが、周囲によって華族学校をやめさせられ、14歳で資武と結婚させられる。

一子を設けるが、しかし、執拗な夫の性欲の道具のような夫婦関係が続き、5年後、19歳で離婚。


燁子の義母初子は、戻ってきた燁子を隠居所の一室に入れる。閉ざされた生活が続くが、24歳で東洋英和女学校に入学し、寄宿舎生活に入る。「竹柏会」に入会、佐々木信綱に師事し、「心の花」に歌を発表するようになる。


明治44年、28歳のとき九州の富豪伊藤伝右衛門(当時52歳)に嫁ぐ。

伝右衛門は九州一の炭鉱王として財をなしていた人物であり、結婚は、兄、義光の貴族院議員出馬の資金繰りのための結婚だったと言われる。

当時の二万円という結納金。伝右衛門は燁子のために「赤銅(あかがね)御殿」と呼ばれた別邸を建てて迎え入れる。名門華族と大富豪の結婚は「黄金結婚」ともてはやされ、燁子は「筑紫の女王」となっただったが、伝右衛門には子種もなく、何人もの妾が家を取り仕切っている。複雑な人間関係、愛のない生活に燁子は懊悩する。夫を間に挟んで妾と三人で枕を並べて寝たこともあるという。

女とて一度得たる憤り媚に黄金に代へらるべきか

或時は王者の床も許さじとまきしかいなのこの冷たさよ


そんな中で燁子は歌を紡ぎ、大正4年、処女歌集『踏絵』を自費出版。白蓮と号し、歌人としても名が知られていく。大正8年には詩集『几帳のかげ』、歌集『幻の華』を出し、「赤銅御殿」は倉田百三など多くの文化人が集まり、文学サロンとなっていく。


戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表したのがきっかけで、「解放」の記者、宮崎龍介と知り合う。龍介は東京帝大の学生、学生運動「新人会」の有力メンバーである。燁子は若々しい正義感と貧しい人々に注ぐ情熱に惹かれ、恋に落ちる。

今はただまことに人を恋ひそめぬ甲斐なく立ちし名の辛さより

君ゆけばゆきし淋しさ君あればある淋しさに追はるるこころ

2度の結婚で得られなかった本当の愛がそこにあった。やがて燁子は龍介の子を宿し、龍介のもとへ走った。


大正10年11月22日、大阪朝日新聞夕刊に「白蓮と宮崎龍介の恋の手記」として、『白蓮の絶縁状』が掲載される。この時、燁子35歳、龍介は29歳であった。時はまだ大正の男尊女卑の世の中、このスキャンダルは各所で波紋を呼び、燁子の兄、義光は貴族院議員の座を去るなど、柳原家は大打撃を受けることになる。燁子自身も断髪し尼寺に幽閉の身となった。


伝右衛門の配慮で姦通罪を免れたが、華族から除籍、財産も没収される。しかし、離婚が成立し、世の非難と同情の中で、大正12年、宮崎龍介の妻となる。


以後、龍介が結核を発症し、燁子は苦境に陥るが、筆で生計を立て、龍介が治癒後(弁護士となる)は、平和運動などの社会活動に情熱を傾け、晩年は平穏な日々を送った。昭和36年、緑内障で失明、龍介の介護を受けながら歌を詠みつつ暮し、昭和42年、81歳で波乱に満ちたその生涯を閉じた。

月影はわが手の上と教へられさびしきことのすずろ極まる

そこひなき闇にかがやく星のごとわれの命をわがうちにみつ



関連文献

宮崎龍介「柳原白蓮との半世紀」(「新評論」1967年6月号)

永畑道子『恋の華・白蓮事件』(文藝春秋1990年・藤原書店2008年)

斉藤憐『恋ひ歌―宮崎龍介と柳原白蓮』(2003・而立書房)