ナショナリズム・ルネサンス -2ページ目

ナショナリズム・ルネサンス

このブログは、誤解されがちな保守思想/経済思想/軍事思想に光を当て、淡々と解説する物です。
過度な期待はしないでください。
あと、部屋は明るくして、画面から十分離れて見やがってください。

 

 ここ数週間、日本でもMMTが急速に認知されつつあります。
大手メディアでMMTが取り上げられたり、国会で麻生財務大臣や安倍首相に対し、MMTへの見解についての質問・答弁がなされた、ということもありました。

(記事紹介をします。タイトルからして面白い記事。「焦点:財政拡大理論「MMT」、理想の地は日本か」

MMT台頭の時系列的な流れが図でわかりやすく紹介されている記事。「台頭する「現代貨幣理論(MMT)」は「生き残れる」のか?」
風の噂では、L.ランダル・レイのMMT入門本の邦訳版の出版が前倒しされた、とも聞きます。

 

この流れは、アメリカで今もっとも注目を集めている議員、アレクサンドリア・オカシオ=コルテスが彼女の政策「グリーン・ニューディール」を実現するためにMMTを強く支持したためです。

これでアメリカで一気にMMT議論が盛んになり、それが日本にも流入してきた、というわけです。


われわれ日本のアマチュアのMMTer(MMT支持者)も、この流れに機敏に反応しています。
日本語で読めるMMT関連の記事を集めた「MMT日本語リンク集」が立ち上がりました。

MMT日本語リンク集

 

 今回のエントリーでは、今までとは違うMMTの紹介、即ち、MMTの具体的な内容紹介ではなく(そのような記事はいま氾濫状態にあるため)、『「MMTは他の経済学と何が違うのか」についての個人的な見解と提案』をします。

 

私のMMT理解のベースは、オーストラリアのMMTer、ビル・ミッチェルの次の記事に依拠しています。

「MMTが論ずるのは『現実が何か』であって、『現実がどうあるべきか』ではない」

↑の記事を読んでから、このエントリーを読むと解りやすいと思います。

 

 

 MMTはマクロ経済学に分類される学説ですが、同じマクロ経済学の中でも特異な学説となっています。

他のマクロ経済に比べて、MMTの特異性は2つ存在します。

 

 1つ目のMMTの特異性はその名前「現代貨幣」に表れています。
これまでのマクロ経済学は人間の経済活動に照準を当てた分析をしていますが、MMTは「現代貨幣」に照準を当てた分析をします。この「現代貨幣」は、少なくとも古代バビロニア以来4000年間の貨幣です。

(厳密には、貨幣に照準を当てた理論は、「サーキット・セオリー」など他のポスト・ケインジアン派の学説にも存在します。)

これにより、従来のマクロ経済学とは異なる分析が可能になります。具体的には、人間の心理や社会と切り離して時代を一気通貫した、客観的な分析が可能になっています。例としては「Spending First」や「租税貨幣論」などです。これらは時代や社会に依存しない普遍的な理論です。

 

 2つ目のMMTの特異性は、『現実は何か』に特化した学説であることです。

経済学の分類の仕方には色々とありますが、その一つに「事実解明的分析」「規範的分析」という分析の違いによる分類があります。

「事実解明的分析」は現実はどうなっているかを分析します。

一方、「規範的分析」は現実はどうあるべきかを分析します。

ほとんどのマクロ経済学の学説が両者の混合である中、MMTは純粋な「事実解明的分析」にかなり近い学説となっています。このことを言い換えると、MMTそれ自体はいかなる政策提言もしません。(後述しますが、JGPといった例外はあります)

つまり、MMTは均衡財政にしろだとか、財政出動をするべきだとか、市場に任せろといった「すべき論」を言いません。それに対し、MMT以外のほとんどのマクロ経済学の学説は、それら独自のイデオロギーを持っており、「すべき論」を盛んに主張します。ただしMMTを論じる人間もこういった「すべき論」を主張することはあります。なぜなら、人間は誰しも右派なり左派なりのイデオロギーを持っているからです。

 

MMTはあくまで現実の経済を分析し説明する理論です。このことをビル・ミッチェルは前述の記事で「我々は既にMMT的世界に住んでいる」と表現しています。MMT をベースに政策提案をしようとすると、必ずイデオロギーが、「規範的分析」の理論が必要になってきます。「MMTにとってJGPは不可欠だ」というのがMMT第一世代の主張ですが、そこにも「完全雇用を目指す」という左派的なイデオロギーがあります。再度、ビル・ミッチェルの言葉を借りると、「MMTは左派でも右派でもない。MMTの理論的・描写的側面と、その上に付加されているMMT提唱者の価値観を混同してしまうという錯乱的な嘘が存在している。私が左派の立場から解説してしまうせいで、MMTは左派だと思われているかもしれない。しかし、それは間違った推論だ。」

 

 ところで、理系の中でも「事実解明的分析」/「規範的分析」に似た分類があります。

それは、理学(事実解明的分析にあたる)と工学(規範的分析にあたる)です。

一般に理学は基礎研究、工学は応用研究とされていますが、理学は真理の探求を目標とした学問で、工学は人類の幸福を目標とするという見解もあります。後者の定義のほうが、経済学の「事実解明的分析」/「規範的分析」により近いでしょう。

 

理学と工学の中間の学問もあります。応用物理学、応用化学、応用生物学などです。これらは大学によって理学部にあったり工学部にあったりします。これらは工学の基礎となる学問で、理学と工学の架け橋となる学問です。化学分野では応用化学に対して、純然たる理学の化学を純粋化学と呼ぶようです。

 

 そこで、私からの提案があります。

MMT第一世代もイデオロギーという沼からは完全に脱しきれていません。MMT をより強固な理論(より現実を説明できる理論)にするために、あらゆるイデオロギーを排除したMMTと、このMMTを基盤とし、そこにJGPや反緊縮等の政策提言につながるイデオロギーを付加したMMTとに分けてしまいましょう。化学分野に倣い、イデオロギー・レスのMMTを「純粋MMT」、MMT第一世代のJGPや反緊縮、長期停滞からの脱出などのイデオロギーが注入されたMMTを「応用MMT」と呼ぶことにしましょう。

純粋MMTは貨幣の性質と働きに注目した「事実解明的分析」をします。それに対して、応用MMT純粋MMTを基盤として、人間の心理や社会活動をイデオロギーとして取り込んだ「規範的分析」をします。そして応用MMTを工学としての政策(例えばグリーンニューディール)へと応用します。

基盤に特化した理論であるがゆえに応用先が豊富なのがMMTの魅力ではないかと思います。

 

 応用先が豊富ということはMMTの論理で「緊縮政策」といった「悪い」(この価値判断自体がイデオロギーを反映している)政策に利用出来てしまうのではないか、という批判が出てくると思います。これに対してはビル・ミッチェルが前述の記事で答えています。
「MMTが出来るのは、ある人が特定の政策提案を推進するときに、その思想的信念をより明瞭にすることである。」
これを簡単に言うと、MMTは政策の背後にあるイデオロギーを浮かび上がらせて丸裸にできる、ということです。先程の緊縮政策の例だと、「あなたがその政策を推進したいのは、緊縮したいからだ。」とはっきり指摘することが出来ます。あとはそのイデオロギー同士で闘い合えば良いのです。

 

なお、私自身は、私自身のイデオロギーにより、純粋MMT+JGP+藤井聡先生提唱の高圧経済というキメラな政策を支持しています。

 

 

以上で、『「MMTは他の経済学と何が違うのか」についての個人的な見解と提案』を終わります。

 

(了)

 

 今回は内藤敦之先生の論文『貨幣の名目制:表券主義の貨幣理論』の紹介をします。

 この論文はMMT(現代貨幣論)の論文として面白いのですが、ネット上で公開されるまで2年かかるとのこと。MMTはここ最近、アメリカでの大論争が日本にも波及し、大手メディアに取り上げられたり、日銀総裁への質問や国会での麻生大臣への質問に登場するなど、今が「旬」です。

 公開されるまで2年も待っていられない、やるなら今でしょ、ということでこの論文を要約して紹介していきたいと思います。

 

貨幣の名目性

貨幣とはなにかという問いには、教科書的には3つの機能に説明されています。

すなわち、「交換手段」「価値貯蔵手段」「計算単位」です。

このうちのどれを本質として見做すかは、学派によって異なります。

 

「交換手段」を重視       :新古典派、オーストリー学派

「価値貯蔵手段」を重視:ケインジアン、ポスト・ケインジアン

「計算単位」を重視   :内生的貨幣供給論ないし信用貨幣論、表券主義

 

名目主義(計算貨幣とは)

 計数単位としての貨幣、すなわち計算貨幣は円、ドル、ユーロのように名称が定められています。

また、実態としての貨幣も、貴金属、商品貨幣、紙幣、預金通貨のように様々です。そのような意味で貨幣は名目的な存在であり、計算貨幣を重視する立場を名目主義と呼びます

 ホートリーは貨幣の定義を「負債を支払う手段」としています。表券主義は「税の支払手段」としていますが、租税は国家が指定する一種の負債なので、実質的には両者の定義は同じです。実際の支払手段である実態としての貨幣は、任意に恣意的に決定されます。国家が指定する、あるいは社会に認められる限りは何でも良いのです。

 また、計算貨幣はそもそも負債の表示単位ですが価格の表示単位としても使われます。取引される財/サービスや租税の形で信用/債務が発生し、その大きさを示す単位として計算貨幣が導入されます。
 

名目主義と金属主義

 貨幣本質論において、名目主義と金属主義(あるいは商品貨幣説)は対立する立場になっています。

 金属主義(あるいは商品貨幣説)は交換手段としての貨幣を重視しています。

金属主義は、貨幣と貴金属の実物的な価値との関係を重視する立場で、商品貨幣説の一種です。

商品貨幣説は、貨幣が商品から進化して成立するという主張です。商品が貨幣に進化する際に、受領性の高い貴金属のような実物的な価値があるものが貨幣として選択される、と論じられます。

新古典派の議論においては、いわゆる欲望の二重一致を解決する手段として説明されます。

 これに対して名目主義は、貨幣の価値を、貨幣の実物的な価値とのつながりを否定し名目的なものとして扱うため、金属主義と名目主義は対立することになります。

 

 この対立は(貨幣本質論だけでなく)貨幣理論全体に及んでいます。

 商品貨幣説では、貨幣と商品の類似性が強調されるため、貨幣自体の価値が商品と同じく需要と供給によって決定されるという貨幣数量説と結びつきます。貨幣数量説は信用貨幣論とは相容れない説です。実際に商品貨幣説では(銀行預金のように現在の貨幣の大部分を占める)信用貨幣の説明が困難で、最終的には貨幣を実体経済に影響を及ぼさない中立的なものとしています。

 

信用貨幣論と表券主義の違い

 信用貨幣論と表券主義は、名目主義(計算貨幣を重視)という点で共通していますが、貨幣をどのように捉えるかと言う点で違いが存在します。
 
 表券主義では、計算単位を国家が指定することによって計算貨幣が生み出されます。これは国家が課す「税の支払手段」としての貨幣の指定でもあります。どちらにせよ、国家が指定できるという点で名目的です。この意味で表券主義は国家貨幣説とも呼ばれます。
 このようなl国家貨幣は、国家が財やサービスを購入する(財政政策)ことで供給されます。このとき、財やサービスの売り手が国家貨幣を受け取るのは、それが税の支払い手段にもなるからです。このことが国家貨幣が市場に流通する根拠になります。
 
 他方、信用貨幣論では貨幣を「負債の支払手段」として定義しています。これは貨幣が物々交換から出発するのではなく、二者間の取引で信用/債務の関係から生まれてきたというものです。
ホートリーによれば、財/サービスの取引を行う時、同時に交換するのでなければ信用取引になります。
こういった二者間の取引は無数に行われており、信用/債務の関係も無数に存在します。ここで信用/債務を相殺する、あるいは決済する必要が生じますが、相殺、決済のためには共通の表示単位が必要になります。ここで必要となる負債の表示単位あるいは計算単位が計算貨幣です。
 負債の決済をより円滑に行うには、受領性の高い第三者の負債が必要になります。この第三者は通常は銀行です。銀行による負債の発行は、財/サービスの購入ではなく銀行貸出によって、銀行預金という銀行の負債が発行されます。この銀行預金は借り手が他者と取引を行う際に受領され、貨幣として通用します。こういった銀行預金は預金通貨あるいは信用貨幣と呼ばれることになります。
 
以上のように、計算貨幣(名目主義)は信用貨幣論と表券主義に共通していますが、具体的な貨幣のあり方については異なった議論をしています。
 

新表券主義の展開

 表券主義はクナップやミッチェル・イネス、ケインズによって展開されましたが、第二次大戦後は忘れ去られていました。しかし1990年台後半に、L.ランダル・レイによって「新表券主義」として復活を遂げます。
(筆者注:復活の経緯は前回の記事が参考になります。)
 

新表券主義のマクロ経済理論

 この「新表券主義」では信用貨幣論と表券主義が統合されています。
 信用貨幣は銀行預金ですが、多くの国家で税の支払手段として認められています。つまり信用貨幣も国家貨幣になっています。また、信用貨幣論も表券主義も、貨幣供給が内生的であるという点は同じです。表券主義において貨幣供給が内生的であるというのは、以下の式で表せます。
Sを民間貯蓄、Iを民間投資、Gを政府支出、Iを租税収入、NXを純輸出あるいは貿易収支の黒子とすると
 S-I = (G-T)+NX
と表せます。この数式の意味は、左辺の民間貯蓄超過が右辺の財政赤字+貿易収支黒字と等しいということになります。閉鎖経済では民間貯蓄超過はすなわち、民間部門の純貯蓄=財政赤字となります。民間部門の貯蓄性向が高い場合は、海外への輸出によって帳尻を合わせない限りは、政府部門の赤字が必要になります。
 
 表券主義における中央銀行は信用貨幣論における中央銀行と異なった側面を持ちます。
第一に、表券主義における中央銀行は政府の銀行としての役割を果たします。
第二に、中央銀行は金融政策を短期利子率の制御によって行います。(この点は信用貨幣論でも同じ)
短期利子率の制御には、国債を使った公開準備操作によって調整を行っています。
 財政出動を行うと民間部民において投資や消費が増大し、その代金は銀行に還流して超過準備になります。超過準備を放置するとインターバンク市場で利子率が下がるため、利子率を維持するには国債の売りオペを行い過剰な資金を吸収します。逆に利子率が上昇する場合、国債の買いオペによって貨幣を供給します。超低金利の場合に非常に大規模な買いオペを行うのが量的緩和政策です。
 
 ここで国債についても検討しています。新表券主義においては、国債は上述したように金融政策の手段として重要ですが、国債は論理的には必ずしも必要ではありません。政府は民間と異なり、事前のファイナンスを必要とせず、国債を発行せずに政府支出を行えるからです。そのため国債は政府の資金調達のためではなく、金融市場において別の意義が存在します。
 国債の意義は、まず最も信用性の高い債権だということです。次に、金融政策手段、すなわち公開市場操作の対象として重要です。中央銀行が利子率の水準を決めるための重要な手段になっています。
さらに国債には利子がある信用性の高い債権なので、民間部門が保有するメリットがあります。
また、レイ曰く「閉鎖経済においては、純金融資産の唯一の源泉は政府である」。すなわち、国債は民間部門にとっての外部資産となります。
 

表券主義と信用貨幣論

 信用貨幣論では中央銀行は銀行間の決済を行う機関として存在しています。また、決済の時に銀行の資金が不足する場合には銀行に貸出を行ったり、場合によっては金融システム全体にに波及するのを防ぐために貸出を行う「最後の貸し手」として振る舞うときも存在します。
 信用貨幣は需要に応じて銀行が供給するものとなりますが、これは中央銀行にとっても同じであり、銀行の借り入れ需要に応じて中央銀行が準備を供給します。そのため、中央銀行が直接に準備量、あるいは預金通貨の量を制御することは困難で、通常は短期利子率によって間接的に制御しています。
 
 国家貨幣と信用貨幣は異なる起源を持ちますが、等しい価値を持ちます(計数単位が共通)。
 また、マクロ経済においてはどちらも貨幣の循環として描かれます。
信用貨幣論における循環は、企業が投資のための資金を銀行から借り入れることによって預金が創造され、その預金が支出されることによって始まります。最終的には企業は商品の売上から銀行預金を銀行に返済し、返済された銀行預金が消滅するという循環が生まれます。
 他方、表券主義における循環は「租税が貨幣を駆動する」過程として描かれます。すなわち、国家が財政出動によって財/サービスを購入するところから始まり、最終的には租税を支払うという循環です。
 
 現実にはこの2つの循環は一定の関係で併存しています。その点を明らかにしたのが「貨幣のヒエラルキー」または「負債のピラミッド」です。これは多くの階層が存在しますが、ここでは三階層に単純化します。最下層に銀行以外の主体が発行する負債が存在しまします。二番目の階層は信用貨幣あるいは銀行預金です。最上位の階層は中央銀行が供給する準備、あるいは中央銀行預金です。
 最下層の負債の決済はより信用度の高い第三者の第二階層の銀行預金によって行われ、第二階層の銀行間の決済はより信用度の高い第三者の最上位の階層の中央銀行の負債によって行われます。
 こうしたピラミッドの特徴は、レイ曰く「第一にピラミッドにおいて高い階層で発行された負債は一般により受領性が高いというヒエラルキー的配置が存在する。・・・・・・・第二にそれぞれの階層の負債は一般により高い階層の負債をレバレッジする」。すなわち、低い階層の負債のほうが量的に上の階層よりも多くなります。
 信用貨幣論では論理的には中央銀行は政府の一部である必要はありませんが、貨幣のヒエラルキーにおいては最も信用力のある主体として国家の負債を用いることになり、中央銀行は政府の一部に統合されます。
 
 信用貨幣論では、中央銀行は自身の負債となる準備の供給と、最後の貸し手としての機能があります。表券主義では、政府の銀行との役割を果たしています。この2つは全く矛盾せず、補完的な機能となっているだけでなく、信用力の高い第三者の負債としての国家の負債を提供するという点で、中央銀行は政府の一部になっています。金融政策についても短期利子率の操作という点では共通しています。
 

新表券主義の応用

最後に、新表券主義の応用として、①ユーロ危機②雇用保障政策(JGP/ELR)を取り上げています。
 
①ユーロ危機
 ユーロはユーロ採用国全てにとって外国通貨となり、金融政策がユーロ圏共通となります。そのため、一国の経済状態に合わせた金融政策が行えないだけでなく、財政政策は協定によって緊縮政策を強要され、景気刺激策として使えません。国債が発行可能でも、民間引受になるため、市場の評価で利子率が変化してしまいます。
 すなわち危機を迎えると、緊縮財政により危機からの脱出が容易ではなくなっていまっています
「ユーロ圏諸国は国家主権と民主的権力の非常に重要な手段を放棄してしまった。どの単一の政府も有効な制御を行えないユーロという外国通貨を本質的に採用してしまった。」のです。
 以上が新表券主義(MMT)によるユーロ危機の分析です。
 
②雇用保障政策~JGP/ELR
 雇用保障(Job Guarantee)政策、あるいは最後の雇用主(Employer of Last Resort)政策は、全ての失業者を政府が雇用するという政策です。具体的な方法は様々な方法が考えられますが、一般的に提唱されているのは、失業者を法定最低賃金、あるいはそれに近い水準で希望者全てを政府が雇用するというものです。
 表券主義との関係は、表券主義では財政政策が物価水準に影響を及ぼすため(財政赤字の基準は物価水準の動向)、政府が最低賃金を設定しその賃金で失業書を雇用すると、物価全体に影響を及ぼします。
 主流派経済学のNAIRUアプローチはフィリップス曲線(インフレ率と失業率の間の右下がりの関係)を利用して、物価の安定と失業率を制御するものです。雇用保障政策をNAIRUアプローチと比較すると、どちらも物価の安定を達成できますが、雇用保障政策はほぼ完全雇用を達成することができます
 
 
以上、内藤敦之先生の論文『貨幣の名目制:表券主義の貨幣理論』の紹介でした。
 
(了)

 

このコラムは以下の記事の翻訳です。Tom Streithorst氏によるMMT創設史の紹介となります。

https://www.vice.com/en_ca/article/a34n54/modern-monetary-theory-explained

 

注意!この記事はモズラーにより事実の誤りが指摘されています。詳しくは以下の記事にて。

 

政府が無限のお金を持っているという過激な理論

 

 政府が支出する前には税が必要なのは常識だ。現代貨幣理論の前提は、その必要はないということらしい。


背の高い、ひげを生やし穏やかな茶色の目をした、「ウォール街を占拠せよ」のベテラン、ジャシー・マイヤーソンは、インディアナ州南部の寂れた地域のドアを毎日ノックして回っている。有権者にこの国の莫大な富に思いを巡らせてもらおうと。進歩的な草の根グループ「Hoosier Action」の主催者としての彼のメッセージは、アメリカ合衆国はそれはそれは裕福な国なのであり、その富は南インディアナ州の貧しい人々にも行き渡らせることができるし、そうすべきだ、というものだ。

「人々がひどい経済的苦痛を受け続けてきたために、地域社会の魂が死んでしまった。」マイヤーソンは彼が巡回するこの地域のことをそう語ってくれた。薬物中毒の蔓延は自殺のようなものなのだと。「人々の苦しみを受け止めるてくれるようなまともな組織が一つもない。右派の外国人嫌悪運動だけなんだ。」

彼が言うには、貧しいインディアナ州の人心の奪い合いにおける彼のグループの最大の競争相手は伝統主義労働党と呼ばれる白人至上主義者グループであるとのことだ。「彼らはも私たちと同じ方向性で組織されている - ヤツら寡頭者は専制的で俺達を搾取している、そして俺達にも平和と繁栄が必要だ - 。違いは、彼らが『欠乏』の枠組みに乗っていることだ。」「彼らの言い方はこうだ。『みんなに行き渡るには足りないのだから、我々白人は固く結束し奪われないように気を付けよう』って。」

対してマイヤーソンは、「私たちは豊かさという価値に沿って組織している。つまりみんなに行き渡るだけの豊かさはあり、私たちは全員、自由と尊厳を享受することができる。」と言う。

アメリカの主流の政治からは、「広く行き渡るのに十分なものがある」という言い方はほとんど聞こえてこない。特に共和党員は連邦政府の財政赤字を増加させるという理由でセーフティネットや財政刺激策を批判している。支出に大ナタを振るう過激な法案を推進している人たちもいる。民主党もまた、共和党員が1兆5000億ドルの減税法案を支持したときのように、赤字財政支出に反対する議論をすることがある。バーニー・サンダースの「メディケア・フォ・オール」のような、多くの金銭的な費用がかかる野心的な提案は、費用がかかるという理由から毎回却下される。1970年以来連邦政府は四回の例外を除き毎年財政赤字を計上していて、債務残高(これらの財政赤字の累積)は20.6兆ドル積み増すことになった。ほとんどの有権者はこれについて世論調査で尋ねられると、国は負債に関して間違った方向に進んでおり、議会がこの問題に取り組むことを望んでいると答える。

マイヤーソンは赤字に悩んだりしない:「国家の歴史の中でも、富の歴史の中でも私たちは最も豊かな国だ。もちろんお金の心配はない。」さらに彼は指摘する。議会が国防総省の予算を増やしたり、遠く離れた国に侵入することを決めたときに、値札を心配する人はいないではないかと。

政府支出についての彼の楽観的な見方のバックグランウンドになっているのが現代金融理論(MMT)だ。この学派は、政府の財政赤字に対する私達のパニックは妄想であり、世迷い事であり、金本位制の誤った名残であると論じている。MMTは左派への影響力をどんどん増しており、マイヤーソンのような進歩主義者が「米国はメディケアのような幅広い社会改革を、値札が高いことを理由にしてやめるべきではない」と主張する根拠を与えている。

現代貨幣理論の基本原則はあからさまなことのように思われる。不換通貨システムの下にある政府は、紙幣を好きなだけ刷ることが出来る。労働、機械、原材料という必要な実資源を動員できる限り、国は公共サービスを提供することが可能だ。MMTによると、私たちの赤字に対する恐れは、貨幣に関する深刻な誤解に由来している。

五歳児はみな貨幣を理解している。素敵な女性に渡すとアイスクリームがもらえる - 商品やサービスと交換できる内在的な価値を持った物。ところが現代通貨理論のレンズを通すと、ドルは米国政府によって発行された負債にほかならない。そして政府はそれを税金の支払いとして受け取ることを約束している。あなたのポケットの中のドルは連邦政府があなたに負っている借金を表している。お金は金の塊ではなく、むしろIOU(借用証書)だ。

このどこか形而上学的な区別が、大きな実用的帰結をもたらしている。連邦政府はあなたや私とは違い、お金を使い果たすことがありえないという意味になる。お金で買えるものが尽きることはあり得る - 価格を押し上げインフレとして表れるだろう - しかし、お金を使い果たすことはあり得ない。Deficit Owlsという名前でつぶやく経済学の大学院生、Sam Levey が私にこう説明してくれた。「メイシーズはメイシーズのギフト券を使い果たすことはできない」。

とりわけ、政府は市民に対してもっと多くのサービスを提供せよと望む人々にとって、これは説得力のある議論であり、経済学者でない人にも理解できる議論だ。マイヤーソンは、「私は、お金がどのように機能しているかについて、これ以上に説得力のある説明を聞いたことがない」と述べた。「あの連中があらゆる種類の人々と議論するのを見てきたが、誰かが彼らを論破するのを見たことがない。」


九月、「あの連中」はカンザスシティで開催された最初の現代通貨理論学会に集まった。225人の学者、活動家、個人投資家が参加し、ライブストリームを何千人もが視聴した。

UMKCスチューデントセンター講堂で、背が高くテレビ映えする、バーニー・サンダースの前経済顧問のステファニー・ケルトンは、熱心な群衆向け、今日のアメリカ経済の基本的な問題は「慢性的失業」につながる「総需要の欠如」であると語った。つまり、アメリカの問題は、物を作れない(供給)ということではなく、私たちが作ることができる物をすべて買う余裕(需要)がないということだ。私達の潜在生産力は私達の消費能力を凌駕している。

「政府がやりたいプログラムの支出に困ることはありません。増税する必要はありません。」とケルトンは付け加えた。何しろこれを理解しない左右の政治家が言うからだ。「子供たちが腹を空かせてしまう - 橋を建設するな」と。

マスメディアではほとんど報道されないが、この見解は経済学者の間で特に論争の的になっているわけではない。オックスフォードの経済学者、サイモン・レン-ルイスは私にEメールで次のように書いてくれた。「イデオロギー的でないほとんどの主流経済学者は、米国がより多くのインフラ投資を必要としていて、その財源は公債の借入で賄うのが最善であることに同意だろう。」彼は続けて、「ほとんどの人が緊縮主義は主流のマクロ経済学であると考えているが、そうではない。反緊縮主義者は、MMTが提供するような代替理論を探している。」

不十分な支出によって引き起こされる失業や不完全雇用の問題をどうすれば解決できるかは、経済学者なら知っている。どの入門教科書を見ても、減税(民間部門に残す貨幣を増やすとそれらが支出される)または支出を直接増やす(ドルを創出し、それを政府支出を通じて経済に注ぎ込む)ことによって政府は意のままに需要を増やすことができるとされている。

問題は、これらの政策がいずれにせよ財政赤字(ほとんどの政治家が悪いものだと考えいてる)を増やすことにある。保守派は、政府支出の増加が民間部門の投資を「締め出す」ことを恐れている。MMTの支持者は、その時点で経済がフル稼働している場合でないかぎり、クラウディング・アウトは発生しないと答えるだろう。現在の賃金の停滞および低金利が示しているのは、経済はまだインフレが始まる以前で、まだ大量の「緩み」があることを示している。

MMTの論者たちは、赤字の支出はインフレにつながるとはっきり考えており、むしろ財政を増やすときの不都合な側面はインフレのみであると考えている。遡って1960年代に起こったのがこれだった。リンドン・ジョンソン大統領は、民間部門経済が活況を呈していたにもかかわらず、ベトナム戦争と彼のスローガン「偉大な社会」への支出に支払うための増税を拒んだ。その結果、1970年代にインフレ率が上昇することになり、ロナルド・レーガンの当選につながったいくつかの経済的要因の一つとなった。

しかし最近の35年間は、インフレは無視できる程度だった。連邦準備制度理事会は、2012年に2%のインフレ目標を承認したが、以来それはずっと未達成のままだ。現在の世界経済にとってはデフレの方が大きな脅威だ。MMTに賛成している人にとっては、私たちがもっと支出する必要があることは明白で、そのことが人々に十分理解されていないことにじれったい思いをしている。


MMTの最初の提唱者はウォーレン・モズラーだ。彼はウォール街の投資家だった30年前に、連邦政府がいったいどのように課税し、借入し、また支出するのかを深く掘り下げることにより、他の投資家との競争において優位に立とうと考えた。

この壮健で、日焼けした、節税目的でセントクロイ島に住んでいる68歳の億万長者は、進歩的な経済運動の風変わりなスポークスマンになった。彼の友人でヘッジファンドのパートナーであるSanjiv Sharmaは私にこう語った。「ウォーレンはより政治にとらわれない」。

子供時代、彼は機械がどのように動き、どのやれば修理でき、どのように組み合わせるかに魅了された。モズラーは工学を専攻するつもりだったが、ある経済学の講座を受講したときに、こちらの方がはるかに簡単だと理解し経済学に切り替えたのだ、と語ってくれた。1971年にコネチカット大学を卒業すると、地元の銀行に雇われ、気がつけば急速に昇進していた。まもなく彼はニューイングランドを離れウォール街に発った。

「私は物事を要素レベルで見るんだ」とモズラーは私に語った。彼は連邦準備制度と財務省が一般経済とどのように相互作用しているかを雑草をかき分けるように正確に調べた。彼は、財務省が税金を徴収し、債券を取引し、支出し、お金を生み出したときにバランスシートに何が起きたのかを理解したいと考えた。その結果、従来の知恵は政府と民間部門の関係をあべこべに捉えていると信じるようになった。

私たちのほとんどは、政府が支出する前に課税しなければならないと仮定している。あなたや私が商品を購入する前にはお金を稼いでおく必要があるから。政府が徴税額よりも多くの支出をしたいのであれば - そしてそれはほとんどいつもそうなのだが - 債券市場から借り入れなくてはならない。しかし、政府がその支出をどのように会計処理しているのかを調べることによってモズラーは、どの場合でも支出が最初であることを見抜いた。あなたの社会保障小切手が期日になったとき、財務省はそれに支払うために十分なお金があるかどうか確認しようしたりしない。財務省は単に、あなたの銀行口座に直接その金額をキーボード入力し、同時に自分の口座の借方に記入する。あなたに支払うお金は、このことによって虚空から作り出される。

あなたが税金を払うときのプロセスは、ちょうどこの逆だ。連邦政府はあなたの口座からドルを差し引き、政府の口座の負債側から同じ金額を減額することによって、あなたが今支払ったばかりのお金を、文字通り破壊する。家庭や企業、あるいは州や地方自治体とさえも異なり、連邦政府はドルを生み出す権限を与えられている。政府が支出すると経済にお金が注入され、徴税するとお金が除去される。2005年の公聴会で当時のFRB議長であったアラン・グリーンスパンは述べている。「連邦政府が望むだけの金額を創出して誰かに支払うことを妨げるものは何もない。」

オックスフォードのエコノミスト、レン・ルイスは、MMTは実際よりも過激に聞こえてしまうと私に語った。「私の見解では、彼らが言うことの多くは主流も言っているものだ。金利がゼロ下限にあるとき、彼らの反緊縮政策は完全に主流のものになる。」と彼は言った。「理論的枠組みの観点から見ると、MMTは1970年代ケインジアンに非常に近いものと捉えている。それに銀行貨幣がどのように創造されるかについての非常に現代的な理解を加えたものだ。」ケルトンはこう言う。MMTは支出と課税の方法を変えようとしているのではなく、単にそれらがどのように行われているかを説明しているだけだ、と。

モズラーは貨幣についての理解から次の洞察を得た:自国紙幣を印刷する政府は破産することができない。この洞察が彼を億万長者にした。

1990年代初頭、イタリアは多額の借金と低税収に苦しんでいた。経済学者やトレーダーはイタリアは破綻に近づいていると恐れていた。イタリア国債の利回りは必然的に急上昇した。モズラーはイタリアがデフォルトに強制され得ないことを認識していた:イタリアは必要なだけ多くのリラを印刷することができる。(これはユーロ以前の時代だ。)彼はイタリアの国債が支払っていた金利よりも低い金利でイタリアの銀行からリラを借り、そのリラで他の投資家が投げ売りしているイタリアの政府債務を買った。この後数年間、この取引で彼と彼のクライアントは1億ドル以上儲けた。

それ以来、モズラーは学界の経済学者と対話を始めたいと思うようになった。彼はハーバード大学、プリンストン大学、そしてエール大学に、連邦準備制度の支払いとそれらの驚くべき影響についての分析を説明し書き送ったが、無視された。そのとき、ドナルド・ラムズフェルドの紹介で、アーサー・ラッファー(サプライサイドのラッファー曲線で有名)とランチを供にした際に論争となったことがあった。ラッファーはモズラーにこう言った。アイビーリーグの経済学部からは何も期待しないように、但し、ポスト・ケインジアンというイカれた異端派グループがあるから、彼らなら興味をもつかもしれないな、と言った。

ランダル・レイ、ビル・ミッチェル、ステファニー・ケルトンを含むこれらの経済学者は、モズラーに表券主義者、20世紀初頭にモズラーと同じように貨幣は政府が生み出した借金であると考えた経済学者たちのグループ、のことを教えた。(MMTは「新表券主義」と呼ばれることもある。)アバ・ラーナーの機能的財政論もまたMMTの源流の一つだ。世紀半ばのイギリスの経済学者であるラーナーは、公僕は財政赤字に捉われず、経済を完全雇用に保つのに十分な需要を維持することに集中せよと主張した。失業率が高すぎる場合、政府は支出を増やすか、減税すべきだ。インフレの脅威には、支出を減らすか、増税するべきだ。ラーナーにとって、また同じくMMT派にとって、政府赤字の規模を気にする理由が存在しないのだ。

ポスト・ケインジアン達に対しモズラーは、税と借入が政府支出の財源になっていないということを説明した。当初、ケルトンは彼を信じなかった。「ウォーレンが出したこれ、出口はそこなのです。私たちが教えられてきたことすべての逆。」と彼女は私に言った。彼女はモズラーの理論が誤りであることを証明する論文を書こうと決めたのだが、そのために連邦準備制度、財務省、そして民間銀行システムの相互作用を深く調べた結果、彼女は自分自身驚いたことに、モズラーが正しいと結論に至ってしまった。「このリサーチのプロセスを通じて」と彼女は言った、そして「私は、ウォーレンとまったく同じ場所にたどり着いた。細かい複雑な事柄がたくさんありましたけれど。」徴税と債券の売却は、政府支出のあとに行われる。それらの目的は政府に資金を供給することではなく、経済システムの過熱を防ぐために貨幣を除去することだ。

モズラーは学界の外から来ましたが、彼の理論は経済学者のいくつかの理論と一致していた。「ある意味でウォーレンがしたことは、知っておくべきことを我々に思い出させるものだった。」と彼女は私に言った。「彼は確かにオリジナルの貢献をしましたが、彼はまた私達に文字通り60、80年前に確立されたけれども忘れられていた教訓を思い出させてくれたのです。」

ケルトンとレイはウェイン・ゴドリーの部門別バランス分析をモズラーに紹介した。それは政府赤字に害がないというばかりか、実際にはむしろ有益なものであることを示唆するものだ。ゴドリーの理論を単純化して、どの経済にも2つの部門があるとする。民間部門と公共部門(または政府部門)とする。政府が徴税額以上の支出をすると、財政赤字が発生する。そして、公共部門の赤字はそのまま民間部門の黒字を意味している。

ケルトンは次のように説明してくれた:私が政府部門全体で、あなたが民間部門全体であると想像してみてください。私は100ドルを戦費や橋の修理や教育の改善に支出します。民間部門はこれらを実現するために必要な仕事をします。そして政府は100ドルを支払いました。次に90ドルを税として取り返すと民間部門の手元に10ドルが残ります。これが政府の赤字です。税金で回収する以上に支出しました。しかし民間部門のあなたは、以前持っていなかった10ドルを持っています。民間部門がお金をためるためには、政府の赤字が必要なのです。

モズラーのヘッジファンドはこの理論から利益を得た。1990年代後半は、ほとんどの人々がクリントンの財政黒字が米国経済を強化していると単純に考えていた。しかしモズラーは、クリントンの財政黒字において、政府は支出に費すよりも多くの貨幣を民間部門から税で取り出していることを意味していると認識していた。モズラーはこの民間部門の赤字(政府の黒字の裏側)は必ずや景気後退につながると予測し、彼は金利の下落(実際に2001年に下落)に賭け、彼のヘッジファンドは再び詐欺師のように利益を上げた。


いま、MMTの支持者たちが興味を持っているのは私腹を肥やすよりも大きな問題である。ケルトンにとって、アメリカ経済の最大の問題は失業や就職難だ。彼女によれば、2000万人のアメリカ人がフルタイムの仕事を望んでいるににできていないとのことだ。これは彼女にとっては衝撃的な資源と才能の無駄遣いだ。彼女の説明によると、雇用を創出するためには総需要を増やす必要があり、それを達成するただ一つの方法は支出を増やすことだ。こう説明してくれた。「売上に基づく経済の中では支出が敵になります。」「資本主義は売上で動いています。経済の活性化、GDPの活性化のために必要なのは財政支出を増やすことなのです。」

支出を刺激する1つの方法は減税である。特にその利益はトップ1パーセントよりもむしろ平均的なアメリカ人に行きわたる。「労働者への減税は、彼らの所得に対して昇給と同じ効果を与えます」ケルトンは言う。「あなたの雇用主が最後に昇給を実行したのはいつでしたか?」

MMTerはインフラ投資や減税などあらゆる財政刺激策を支持するだろうが、彼らの特徴的な政策は連邦政府が資金を提供し、地方が運営される雇用保証(ジョブギャランティ)政策だ。フルタイムでもパートタイムでも、仕事を望んでいる人は誰でも、その地域社会にとって価値があると思われるプロジェクトに1時間あたり15ドルが支払われるというものだ。道路の建設の場合もあるだろうし、高齢者の世話や託児所での仕事もあるだろう。必要なサービスが提供され、同時に失業者および潜在失業者が仕事を見つけられるようになる。

「これは...」、カンファレンスのパネルでランダル・レイは言った。「とても効果的な貧困対策プログラムなのです」。フルタイムの場合、これらの仕事には年間31,000ドル以上が支払われ、5人家族を貧困から救うことができることになる。このパネルでレイとケルトンは、同プログラムが1400万人から1900万人の雇用を創出し、GDPとして5000億ドルから6000億ドルが加算されし、物価の上昇は1パーセント未満に留まるだろうとした。モズラー氏はこれを「一時的な雇用プログラム」と呼ぶ。なぜなら彼はこの連邦政府の支出によって生み出された余分な需要が民間部門の雇用の急増の火付け役となると確信しているからだ。

金融危機から10年が経った今も、アメリカ経済はくたくたになっている。ケルトンはこれを「がらくた経済(a junk economy)」と呼ぶ。公式の失業者数は比較的低いが、賃金の長期的な停滞と、失業統計にカウントされない就業意欲の喪失を引き起こしている。今日の実質賃金の中央値は、ジミー・カーターが大統領だったときより低い。米国の歴史で初めて、ほとんどのアメリカ人の暮らしぶりが両親世代よりより悪化するということになりそうだ。昨年、ドナルド・トランプが勝利した要因の一つには、私たちの多くにとって、アメリカンドリームは死んでおり、経済が壊れているということに彼が気づいていた点にもあっただろう。

MMTは、この経済を修復することは可能なのであり、雇用を創出してより良いアメリカを築くために必要なのは、政府の赤字を心配することをやめることなのだと言う。「政府だって分不相応な出費なんてできない。人々がそう言うのをよく聞きますよね」とケルトン氏。「全く違うのです。今、私たちはその「分」をはるかに下回る生活しかしていないのです。」

モズラーは言う。「政治家が赤字に囚われるのは有権者がこう言うからだ。「私たちが選んだのは、赤字が大きすぎるから削減する必要があると信じる代表者だ。」MMTを支持する学者や左派の活動家たちは、自分たちはアメリカを変えられるのだと人々の考えが変わることを願っている。モズラーは続けた。人々はひとたびMMTの洞察を理解すれば、二度とそれらを忘れることはないと確信している。「元に戻る人はいないよ」

マイヤーソンはそこまで楽天的ではない。彼は知的な議論で勝てば十分とは信じていない。「億万長者が権力を握っているのだから、彼らのアジェンダを支持する経済学が優勢になるんだ。もしMMTが主流になって公共支出を増やすことが当たり前になったら、権力と富が支配階級からシフトすることになるだろう。マイヤーソンは、それは闘争なしでは起こらないのではと疑っている。カンファレンスで、グループ「Debt Collective」のアン・ラーソンとローラ・ハンナが会議で述べた言葉が印象に残っているという。「トリクルダウンによるMMTはあり得ません。それは組織された人々によってもたらされる以外にないのです。」
 

 

今回のコラムはMMTを解説する予定でしたが、その前に「内生的貨幣供給論」の解説を行います。

(「内生的貨幣供給論」はMMTの基盤の一つとなっています。)

 

「内生的貨幣論」はMMTだけでなく、ポスト・ケインジアンの中で広く論じられている理論です。

今回は、内藤敦之「内生的貨幣供給理論の再構築―ポスト・ケインズ派の貨幣・信用アプローチ」から、「内生的貨幣論」を紹介します。

(なおこの本は、L..ランダル・レイの議論の紹介が多く、MMT/現代貨幣論という言葉こそ出ていませんが、表券主義という言葉でJGPを含むレイの現代貨幣論の一部を解説しています。)

 

「内生的貨幣供給論」とは何か?

簡単に言えば「需要に応じて貨幣が供給されるという考え方を軸に、貨幣経済の姿を描く理論」です。

 

現代の内生的貨幣供給論には主に3つの派閥があります。

・ホリゾンタリズム(カルドア、ムーアなど)

・ストラクチュラリズム(レイ、ポーリンなど)

・サーキュレイショニスト(ブールヴァ、ラヴォワ、ロションなど)

ここではこの3つの派閥の説明は、議論が細かくなりすぎるため行いません。

なお、現代的な内生的貨幣供給論は、カルドアに始まる、とされています。

 

「内生的貨幣供給論」と対立する概念に「外生的貨幣供給論」があります。

この両者の違いを見ていきましょう。

 

そもそも貨幣供給が内生的、外生的とはどういった意味なのでしょう?

貨幣供給が内生的というのは、「銀行と民間という経済の『内部』の貸借で『貨幣(銀行貨幣)が生まれる』」、というものです。反対に貨幣供給が外生的というのは、「銀行と民間という経済の『外部』である中央銀行が『貨幣を生み』、それを銀行と民間の内部に供給する」、というものになります。

 

「内生的貨幣供給論」vs「外生的貨幣供給論」

内生的貨幣供給、外生的貨幣供給という概念自体は20世紀以前の古典派の時代から存在しています。

銀行学派が内生的貨幣供給を、通貨学派が外生的貨幣供給をそれぞれ主張し、対立していました。


 もう少し詳しく両者の理論を見てみましょう。

 「内生的貨幣供給論」は「銀行の貸出ありき」です。

銀行が民間に貸出を行った結果、預金(マネーストック)が創造されます。そして民間が銀行から借入れた預金を返済すると、預金(マネーストック)は消滅します。

銀行は貸出を行って預金を創造した後、預金額に応じた一定の額を中央銀行の当座預金に預けること(準備預金制度)が義務付けられてます。私の準備預金についてのコラムでも解説した通り、準備預金は貸出の後で銀行が用意すると想定されています。銀行は、保有現金か、インターバンク市場から掻き集めるか、中央銀行に借入れすることで、準備預金を用意します。すなわち、貸出(マネーストック)の増加に応じて、受動的に準備預金(ベースマネー)を用意することになります。このときの準備率やインターバンク市場の金利や借入れの利子率は中央銀行により「外生的」に決定されます。

 なお、「内生的貨幣供給論」は「信用貨幣説」と密接な関係があります。

(「信用貨幣説」については以前のコラムで解説しました。)

信用貨幣論では貨幣供給は内生的となるため、中央銀行は貨幣量を直接操作することは出来ません。

 

 一方、「外生的貨幣供給論」は、「中央銀行の意志ありき」です。

中央銀行が銀行に、買いオペや貸出などで銀行の準備預金を供給すると、銀行はそれに応じて民間への貸出を拡大できます。そして売りオペや貸出の返済などで準備預金を削減すると、銀行は貸出を縮小します。すなわち、中央銀行がベースマネーの量を制御することによって、マネーストックの量をも制御できるという理論です。(もっと簡単に言えばベースマネーの量とマネーストックの量は比例するため、ベースマネーの量を制御することでベースマネーの量を決めることができる。)

 なお、「外生的貨幣供給論」は「商品貨幣説」と密接な関係があります。

(貨幣の供給が商品と同様に、供給者が外生的に制御可能と考えるためです。)

 

なぜ量的緩和(QE)は目標達成できなかったか?

これは内生的貨幣供給論から簡単にわかるでしょう。

内生的貨幣供給論によれば、中央銀行は貨幣(マネーストック)の量を直接制御できないからです。

日本で量的緩和が行われる以前、マネーストックを巡って、岩田規久男ら経済学者と翁邦雄ら日銀職員との間で論争が有りました、

翁邦雄らの理論は日銀理論と呼ばれるもので、これは「日銀はマネーストックの量を制御できない」という「内生的貨幣供給論」と同様の理論と言えます。

「内生的貨幣供給論」は、「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」という比喩で表現されることもあります。

 

内生的貨幣供給の功罪

 内生的貨幣供給のもとでは、銀行はアニマル・スピリッツを発揮し、企業に融資を行います。

企業側からみると、企業はアニマル・スピリッツを発揮して投資を決意、投資計画を作成した上で、銀行へ借入れを申し込みます。この投資計画では、銀行貸出の利子率を上回る利潤を獲得することが必要になります。

 こうして銀行から貸出を受けて始めて、貨幣が銀行貨幣(銀行預金)として創造されます。

企業は投資計画に従って投資し、生産を拡大していきます。

こうしたアニマル・スピリッツの発揮による預金の創造と投資・生産の拡大は、資本主義が爆発的に発展した理由のひとつとして挙げられています。

これが内生的貨幣供給の「功」の部分になります。

 

 内生的貨幣供給の「罪」の部分は、金融が不安定になることです。

経済が調子の良いとき、銀行はリスクを過小に見積もり貸出することがあります。(マネーストック増加)

ここで何らかのショックが起きたとき、そのリスクは拡大します。

それに反応して投資家らが資産を売却し、資産の価値が暴落していきます。

そうなると、投資家や銀行が債務超過になり、破綻に追い込まれてしまいます。

これがいわゆる金融危機であり、ハイマン・ミンスキーの唱えた「金融不安定仮説」です。

(金融危機を説明するハイマン・ミンスキーの「金融不安定仮説」はストラクチュラリズムに大きな影響を与えています。)

 

 こうした金融危機に対して、銀行の預金準備率を100%にすることで銀行の貸出を抑制して金融危機を防ぐ、「ナローバンク構想」が持ち出されています。

しかし、これは先に述べた、企業と銀行のアニマルスピリッツの発揮を抑制するものです。

資本主義の成長も抑制されることになるでしょう。

 

内生的貨幣供給と国債発行

 最後に、「内生的貨幣供給論」と国債発行の関係の解説をしたいと思います。

ここでは、建部正義「国債問題と内生的貨幣供給理論」の議論を紹介します。
(なお、ここで議論する国債はすべて自国通貨建ての国債になります。)
 
政府が新規国債を発行して財政支出を行う場合、次のステップを踏むことになります。
 
①銀行が新規国債を購入すると、銀行保有の日銀当座預金が、政府が開設する日銀当座預金勘定に振り替えられる
②政府は、たとえば公共事業の発注にあたり、請負企業に政府小切手によってその代金を支払う
③企業は、政府小切手を自己の取引銀行に持ち込み、代金の取立を依頼する
④ 取立を依頼された銀行は、それに相当する金額を企業の口座に記帳する(ここで新たな民間預金が生まれる)と同時に,代金の取立を日本銀行に依頼する
⑤ この結果、政府保有の日銀当座預金(これは国債の銀行への売却によって入手されたものである)が、銀行が開設する日銀当座預金勘定に振り替えられる
 
この後、銀行は戻ってきた日銀当座預金でふたたび政府の新規国債を購入することができます。
このループを図にしたものが下図になります。(中野剛志氏が作成した図になります。)
 
一般通念とは逆に、銀行は民間からの預金で国債を購入するわけではありません。銀行は政府の発行した国債を購入することで、預金が生み出されます。「預金を資金源として国債発行する」のではなく「国債発行で預金が生まれる」のです。
 
 それ故、「内生的貨幣供給論」の立場では国債発行量に資金的限界はありません
政府は財源を気にせず国債を発行でき、銀行はいくらでもそれを購入することができるのです。
(実際には国債発行を大量に行うと、需要と供給の関係が崩れインフレ率が向上していきます。)

このことは今の日本のようなデフレ経済にとって大きな利点と言えるでしょう。

 

以上で「内生的貨幣供給論」の解説を終わります。

 

次回はMMTの解説の第一弾として、SFC(ストック・フロー一貫モデル)を解説します。

 

(了)

 

今回のコラムは「租税貨幣論」と「債務ヒエラルキーの解説になります。

 

前回の「貨幣負債論(信用貨幣論)」と同様、「進撃の庶民」様のコメント欄における論争で「貨幣負債論」「租税貨幣論」「MMT」の特徴解説を依頼されたことが今回のコラムの発端となります。

 

それでは、前回に引き続く第二弾、「租税貨幣論」(とおまけで「債務ヒエラルキー」)を、MMTの入門書である、L.ランダル・レイの「現代貨幣論」から紹介します。

 

「租税貨幣論」とは、税の存在こそが国定通貨を流通させるという理論です。

 

一般的には、税金には4つの機能があるとされています。

①公共サービスの費用調達機能

②所得の再分配機能

③経済への阻害効果

④景気の調整機能

 

今回はこのどれにも触れません。

(次回のMMTの解説では、このうちのいくつかについて触れることになります。)

 

つまり一般的に言われている税の機能以外にも、税には特別な機能がある、というのが「租税貨幣論」の主張になります。

 

不換通貨の流通

人類は、歴史を遡ると、金、銀、銅といった貴金属を通貨にしていました。

数十年前までの金本位制の時代には、貴金属ではなく紙幣を通貨にしていましたが、その通貨には「ゴールド」という貴金属の裏付けがありました。

その時代の通貨は、「貴金属」という人類史上その価値が高水準で推移してきた「モノ」に交換することが出来ました。

また現在でも「ドルペッグ」といった、特定の通貨に固定(裏付け)された通貨があります。

 

しかし、日本を含む先進国の通貨は、このような裏付けのない「不換通貨」が主流です。

しかも、「不換通貨」には貴金属のような内在的な価値はありません。

しかし現実に、貴金属による裏付けも内在的価値もない「不換通貨」で商取引が行われています。

コンビニやスーパーでの買い物も「不換通貨」で支払うことが一般的です。

最近ではキャッシュレスで「紙幣」や「硬貨」を使う人々が少なくなりつつありますが、このようなキャッシュレスも「不換通貨」に裏付けられています。(Tポイントなどの通貨での支払いについては後述します。)

 

なぜ裏付けのない通貨が流通するのでしょう?

この疑問に対する一つの回答として、「法律で決まっているから」というものがあります。

しかし、歴史的には、法律で通貨の種類を決めても、民間においてその通貨での支払いを拒否されることはもちろん、政府への支払いを拒否する例があったそうです。

これでは、「法律で決まっているから」、というのは回答になりそうにありません。

 

もう一つの回答として、「信頼」- 誰かしらがそれを受け取るという期待 - があります。

あなたは、他の人がその通貨を受け入れるだろうということを知っているので、あなたはあなたの国の通貨を受け入れるだろうという理屈です。

しかしこれは、哲学で言うところの無限後退にあたります。

 

確かに、通貨の流通は確かに「信頼」で成り立っている部分があります。

しかし、それだけでは、裏付けのない通貨がその国の主流の通貨として流通しているという現状を十分に説明できません。

 

それでは一体何が主流の通貨となる決め手なのでしょう?

 

税が貨幣を駆動する

「税金その他の政府への支払い義務」

以下では簡単のために、政府と呼ぶときは、特別な断りがない限り、統合政府のことを指します。

 

政府は、「どの通貨で、納税およびその他の政府への支払いができるのか」を決めることが出来ます。

その他の政府への支払いというのは、罰金や手数料といったものを指します。

ここで政府は、政府自身が発行する通貨(「日本銀行券」や「日銀当座預金」、「硬貨」など)を「納税に使用できる通貨」に指定できます

このような通貨を、以下では「国定納税通貨」と呼ぶことにします。

なお、「国定納税通貨」は私の造語です。(レイ「現代貨幣理論」に適当な言葉がなかったためです。)

 

税金の未払いには罰則があります。

政府がこの罰則を確実に執行する力を持っていれば、

民間はこの罰則を回避するために、指定された通貨を取得して納税に使う必要があります

つまり、政府は納税義務を民間に課すことができ、義務の不履行に対する罰を執行できる能力を持っていれば、民間の納税通貨に対する需要が確実になります。
言い換えると、民間には納税義務があるので、「国定納税通貨」に対する貨幣需要が生まれるのです。

 

納税は税務署でもできますが、大半の納税は銀行経由で行われています。

納税者の預金口座から納税額分の預金額が引かれると同時に、銀行の日銀当座預金から政府の日銀当座預金へ納税額分の準備預金が移動します。

このとき銀行の純金融資産は変化しません。

(銀行の負債となる銀行預金と資産となる日銀当座預金で相殺されます。)

銀行は、納税者と政府の仲介者となるわけです。

 

納税者は納税に使ったっ通貨、つまり国定通貨を他の目的に使用することが出来ます。

政府硬貨や日本銀行券を使って、国内で買い物をすることが出来ますし、住宅ローンなどの民間債務の支払いに充てることも出来ます。

民間企業同士の取引に使うことも出来ます。

使用せずに貯金しておくことも可能です。

ですが、国定通貨のこのような使用法はあくまで派生的なもので、本来は政府への納税のためでした。

 

民間から政府への納税に先立って、政府は国定納税通貨を民間に供給する必要があります。

先に民間に供給しておかなければ、民間は国定納税通貨を取得できないからです。

国定納税通貨の供給手段には、政府支出や買いオペなどがあります。

 

政府は税金その他の政府への支払いが、政府自身が発行した通貨で行われる場合、この通貨での支払いを拒むことは出来ません。

自身で発行した借用書に対して対価(納税などの支払い義務の解除)を支払えないということは、デフォルトになってしまうからです。

これは民間からすると、国定納税通貨は政府への支払いとして確実に受領される通貨として保証されることになります。

このことが、民間が国定納税通貨を保有し流通する最大の動機になります。

このように、通貨に確実な使い途があることを、MMTでは通貨の「最終需要」と呼びます。

後述しますが、「最終需要」はどの通貨にも存在し、通貨ごとにその中身は異なります。

 

国定納税通貨には、「租税」という「強制力を伴った」確実な「最終需要」があるが故に、その国の主流の通貨として流通するのです。

 

以上が「租税貨幣論」の概論になります。

 

 

おまけとして、「租税貨幣論」と関係が深い「債務ピラミッド」という考え方にも簡単に触れておきます。

「債務ピラミッド」には現状いろんな表現(「債務ヒエラルキー」「決済ヒエラルキー」など)がありますが、これらは全て同一の概念です。

 

前回のコラムでも最後に触れましたが

レイの師であるハイマン・ミンスキーは「誰でもお金は発行できる」「問題は受け入れられるかどうかだ」と言いました。

 

前回のコラムで説明した通り、通貨とは負債であり、負債とは数値化した義務です。

そして義務は、きっかけさえあれば、誰もが他人に負わせることが出来ます。

しかし債務者はその義務を無視することが可能です。

したがって、債務者にとってその義務を履行するメリットや、その義務を無視したときのデメリットがあれば、債務者がその義務を履行する動機になります。

「租税貨幣論」では納税しなかった時の罰が、債務者が納税義務を履行する動機になりました。

義務を履行するメリットや義務を無視したときのデメリットが、その通貨の「最終需要」となります。

通貨には色々な種類がありますが、その通貨が流通するか(通貨の受け入れやすさ)は「最終需要」によって決まります。

これはヒエラルキー構造を成しており、これを説明するのが「債務ピラミッド」になります。

 

「債務ピラミッド」の構成

「債務ピラミッド」は以下のような構成でなりたっています。

頂点には統合政府が発行する通貨(「日本銀行券」「日銀当座預金」等)があります。(政府のIOU)

頂点から二番目には銀行通貨(銀行預金など)が位置します。(銀行のIOU)

三番目には銀行以外の金融機関の発行する通貨、負債。(金融機関のIOU)

そしてその下に、会社等が発行する手形などが位置します。(会社のIOU)

底辺は個人が発行する借用書です。(個人のIOU)

 

統合政府が発行する通貨がピラミッドの頂点にあるのは、前述した通り、「租税」という「強制力を伴った」確実な「最終需要」があるためです。

その国の殆どの場所で決済できるので、その国の主流の通貨としてとして流通します。

対して、底辺の個人が発行する借用書は確実な「最終需要」が殆どないため、通貨としてはとても狭い範囲でしか流通しません。

 

「債務ピラミッド」には、下位の負債を上位の通貨で必ず決済できるという特徴があります。

まず、銀行による貸付は「日本銀行券」で決済することが出来ます。

銀行以外の金融機関の負債は「日本銀行券」や「銀行通貨」で決済することが出来ます。

手形も「日本銀行券」や「銀行通貨」、銀行以外の金融機関が発行する通貨で決済することが出来ます。

とは言え、ピラミッドの低い位置の負債への決済は、普通、銀行のIOUを使用します。

そして銀行は、政府のIOU(日銀当座預金)を使用して、自分のIOUを精算します。

ここでも銀行は、債務者と債権者の仲介者となるわけです。

もちろん銀行の純金融資産は変化しません。

 

その逆、上位の負債を下位の通貨で決済すること、は納税の例のように可能ではありますが、以下で示すように必ず決済できるとは保証できません。

 

Tポイントのようなポイントや電子マネー、暗号通貨も債務ピラミッドのどこかに位置します。

どこに位置するかはその通貨の信用度、言い換えると「最終需要」の確実さによって決まります。

例えば暗号通貨は、どこかの国の債務ピラミッド上位の通貨に交換できるだろうという「信頼」が「最終需要」となるため、ピラミッドの比較的低い位置になります。

上位ヒエラルキーの通貨に交換できるという「信頼」がなくなると、その暗号通貨の価値は暴落します。

したがって、現状の暗号通貨が主流の通貨に取って代わるということは有り得ません。

(暗号通貨に現状以上の「最終需要」が与えられると話は変わってきます。)

 

最後の個人が発行する借用書ですが、「現代貨幣論」では思考実験として「家族通貨」という通貨を考察しています。

親が子供に家の仕事をさせることで、子供に家族通貨を支払います。

ここで親は子供に納税義務を課します。家族通貨を子供から徴収するのです。

もし納税されなかった場合に罰を与えるとすると、子供は一生懸命働くでしょう。

これは政府と民間の関係と同じであることがわかります。

 

以上が「債務ピラミッド」の概要です。

 

 

次回は、本丸「MMT」とは何ぞや?の解説になります。

 

追記

「租税貨幣論」で注意すべきことがいくつかあります。

まず、「増税すると経済が拡大する」と言う理論ではないことです。

「租税貨幣論」はあくまで、納税の機能がしっかり働いていれば貨幣が流通する、という話です。

課税額の大小の話ではないのです。

 

また、「納税の機能がしっかり働かない場合はどうなるの」という疑問が出てくるかと思います。

発展途上国では、脱税や納税回避が横行しており、納税の機能がしっかり働いていません。
ギリシャもその典型です。
そうなると、「高い財政赤字の割に高インフレを招く」ことになります。
通貨が政府に回収されないと生産物の供給量以上に民間に通貨がダブつき、高インフレになります。

現在の日本とは真逆の状態です。

高インフレの状態では、公共事業や防衛装備などの購入はさらなるインフレの上昇を招き、結果として、財政出動による経済発展は困難なります。

このことをMMTでは「国内政策空間」の余地が減少する、と言います。

 

納税の機能がしっかり働かないと、経済成長を目指す政府にとっては「八方塞がり」になります。

 

 

(了)

 

 

今回のコラムでは「貨幣負債論(信用貨幣論)」について解説します。

 

今回のコラムの発端は、「進撃の庶民」様のコメント欄における論争で「貨幣負債論」「租税貨幣論」「MMT」の特徴解説を依頼されたことになります。

 

今回はその第一弾として「貨幣負債論(信用貨幣論)」を、中野剛志『富国と強兵』デヴィッド・グレーバー『負債論』フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』から紹介します。

 

 

ではまず「貨幣負債論(信用貨幣論)」とは一体何なのでしょうか?

 

『富国と強兵』では、イングランド銀行の機関紙(2014年春号)に掲載された解説記事『現代経済における貨幣:入門』から次のように引用しています。

「今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において受け入れた特殊な負債である。」

この引用から筆者は

「貨幣を一種の負債とみなす貨幣観を『信用貨幣論』と言う。」と定義しています。

 

この「負債」と「信用」とはどういった関係なのでしょうか?

 

『富国と強兵』ではこの答えを簡潔にまとめています。

「『負債』とは、言うまでもなく『信用』の対概念であり、AのBに対する負債は、BのAに対する信用である」

 

本書では更に続けて、学者の言葉を引用しています。

 

ケインズに影響を与えたA・ミッチェル・イネス: 

「貨幣とは信用であり、信用以外の何物でもない。Aの貨幣はBのAに対する負債であり、Bが負債を支払えば、Aの貨幣は消滅する。これが貨幣の理論の全てである。」

社会学者ジェフェリー・インガム:

貨幣とは「計算貨幣の単位によって示された信用と負債の社会関係。」

 

こうして本書では「貨幣が負債の一形式であるというのは以上のような意味においてである。あらゆる貨幣が負債なのである。」と結論しています。

 

 

では、そもそも、「負債」、「信用」とは何なのでしょうか?

まず「負債」について見ていきましょう。
 

『負債論』では、まず「義務」と「負債」の違いを確認し、そこから「負債」を定義づけ、「信用」や「貨幣」との関連を示唆しています。

 

「ただの義務、すなわちあるやり方でふるまわなければならないという感覚、あるいは誰かに何かを負っている[借りがある]という感覚、それとの負債との違いは正確に言えばなんであろうか?」
負債と義務の違いは、負債が厳密に数量化できることである。このことが貨幣を要請するのである。」

「貨幣とは負債はまったく同時に登場している。」

人類最初期の文書であるメソポタミアの銘板に「記録されていたのは、信用による貸借、神殿による支給の配分、神殿領地の地代、穀物と銀それぞれの価格などである。おなじく、モラル哲学の最初期の文章のいくつかは、モラルを負債として想像すること、つまりそれを貨幣という観点から想像することが何を意味するのか、についての考察である。」

「したがって、負債の歴史とは必然的に貨幣の歴史なのである。」

 

まとめると、「負債」とはすなわち「数量化した義務」であり、歴史上、「貨幣」と同時に登場した、ということになります。

「このことが貨幣を要請する」とはどういう意味でしょうか?

単純に解釈すると、負債という存在があったから貨幣が必要になった、となります。

負債という概念が先にあるのです。貨幣はその後すぐに誕生したということになります。

 

この『負債論』での「負債」の説明は、『富国と強兵』で引用されたイングランド銀行の機関紙の説明

「今日、貨幣とは負債の一形式であり、経済において受け入れた特殊な負債である。」
と同じです。

 

なお、「貨幣が負債である」というのは、貨幣の発行者から貨幣を見たときの記述です。

貨幣の保有者から見ると「貨幣は債権(資産)」になります。

この「貨幣は発行者にとって負債で、保有者にとっては資産」というのは、MMTにおいては定義になっています。

 

 

次に「信用」とは何なのでしょうか?

『富国と強兵』では負債について、以下の指摘をしています。

「負債とは、現在と将来という異時点間の取引によって生じるものであるが、将来は不確実であるから、負債はデフォルト(債務不履行)の可能性を伴う。」

 

「信用」とは「負債」の将来のデフォルトの可能性を勘案して決断されます。

このお客なら将来ちゃんとお金を払ってくれるだろうと。

この将来は一時間後でも構いませんし、数日、数ヶ月、数年でも構いません。

 

実際、わたしたちは、料理店で提供された料理を食べた後に、決済しています。

これはお店がわたしたちを信用して料理を提供し、わたしたちは発生した負債を食べた後に決済します。

また、お店と客の信頼関係によっては、ツケ払い、つまり将来のいつかの時点での決済、を許可している場合もあります。

食事に限らず、実際の財・サービスの交換には時間差があります。

例えば家のローンなどは、購入から返済までに数十年単位でかかります。

この時間差が生む不確実性を容認するのが「信用」なのです。

 

『富国と強兵』では、イングランド銀行の解説からこのように引用しています。

「貨幣は、この信頼の欠如という問題を解決する社会制度である。」

 

 

「負債」「信用」の意味、そして貨幣との関係はこれで判りました。

次に、「貨幣が負債である」ことの正しさを、以下の2つの観点から確認します。

 

①会計上正しいこと

②歴史的に見ても正しいこと

 

①会計上正しいこと

これは実在する貨幣発行者のバランスシート(貸借対照表)を見れば、すぐにわかります。

わが国の国定貨幣である日本銀行券は日本銀行によって発行されていますので、日本銀行のHPからバランスシートを探してみましょう。

 

以下のPDFは、日本銀行のHPに掲載されている、2018年度の日本銀行の財務諸表になります。

https://www.boj.or.jp/about/account/data/zai1805a.pdf

このPDFに貸借対照表が掲載されており、その負債の部の先頭に「発行銀行券」と記載されています。

日本銀行の「発行銀行券」といえば「日本銀行券」のことです。

なお、資産の部にも「現金」とありますが、その額は「発行銀行券」よりずっと少ないため、自ら発行した日本銀行券を回収して保有している、と解釈することができます。(これは誤りです。詳細はコメント欄で。)

まとめますと、日本銀行から見ると発行した「日本銀行券」は紛れもなく「負債」であり、日本銀行自身が「日本銀行券」を持つと「資産」ということになります。

(勿論これは相殺が可能ですが、相殺が必然というわけではありません。)

 

しかしこれだけでは、会計学上で(発行者にとって)貨幣を負債としていることは解っても、それ(貨幣を負債とする)が妥当なのかまでは判りません。

この妥当性を②で検討していきましょう。

 

②歴史的に見ても正しいこと

歴史学上、貨幣がどの年代に発見されたか?

これは古代メソポタミアです。

そしてこの古代メソポタミアでは、既に信用取引が一般的な決済方法でした。

例えば、彼ら古代メソポタミアの民は、居酒屋の支払いを毎回ツケ払いしていました。

居酒屋のオーナーからすると、お客を相当「信用」しないとできない行為です。

そして飲んだ客は、膨らんだ「負債」を後でまとめて、自分で収穫した農産物などで払う、というような行為が一般的であったようです。

 

古代メソポタミアから発掘された銘板にはこうした信用取引の記録が大量に残されています。

そして将来の支払い義務が記された銘板は、貨幣として流通していました。

(この銘板の持ち主に誰々がどれだけの支払い義務を負っているか、が記された銘板です。)

つまり、この銘板を保有するということは、銘板に記載されている支払額と同額の資産を保有するということになります。

これは現代で言えば、企業の発行する約束手形が流通するようなものです。

まさに、古代メソポタミアでは負債としての貨幣が流通していた、ということになります。

 

『21世紀の貨幣論』には、古代メソポタミアでは「現存する証拠資料の示すところであれば、ほとんどの取引が信用(クレジット)を基盤としていた。」と記載されています。

 

 

一般的な経済学では、物々交換経済→貨幣経済→信用経済へと発展していったと記述されていますが、人類学者の長年に渡る調査によると「物々交換経済から貨幣に発展した例は、いかなる社会にも見当たらなかった」そうです。

物々交換は部族と部族の間の取引のように、信用できるかわからない相手との取引など、限定的には見られたそうですが、決して主流にはなりませんでした。

 

人類学者が調査した社会の中には、古代メソポタミアのように最初から信用取引が発達していた社会が有りました。

例えば、有名なヤップ島の話です。

ヤップ島では発見当時、主要な生産物が3つ(魚、ヤシの実、唯一の贅沢品であるナマコ)しかありませんでした。あとは家畜にブタがいる程度です。

物々交換をするのにこれ以上最適な社会を探し出すのは難しいでしょう。

しかし、彼らはフェイという代用貨幣(トークン)を使って、現代的な信用取引をしていました。

 

『21世紀の貨幣論』から引用してみましょう。

「ヤップの島民は魚、ヤシの実、ブタ、ナマコの取引から発生する債権と債務を帳簿につけていった。債権と債務は互いに相殺して決済をする。決済は一回の取引ごと、あるいは1日の終わり、一週間の終わりなどに行われる。決済後に残った差額は繰り越され、取引の相手が望めば、その価値に等しい通貨、つまりフェイを交換して決済される。」

 

これは実に現代的な信用経済です。

実際、今の日本にもこれと同様のシステムが存在しています。

日本の金融機関が日銀を介して行っている、即時グロス決済時点ネット決済です。

一回の取引ごとに行われる決済が即時グロス決済、ある時点で行われる相殺決済が時点ネット決済です。

ヤップ島では決済後に残った差額はフェイを交換しますが、これは日本では決済後の銀行間での日銀当座預金の残高の移動に相当します。

 

また、このフェイの交換というのも、あくまで「所有権の交換」であって「所有の交換」ではなかったそうです。

そのため、既に所有権が移ったフェイが相手に渡されること無く、今までどおり庭に置かれているという状態でした。

実際にフェイを所有する必要はないのです。

そのため、かつて海に沈んだフェイが、現在は誰も見たこともないのにその存在を信じられており、これも財産として数えられていました。

 

これがフェイが代用貨幣(トークン)である所以です。

ヤップ島のマネーはフェイではなく、その根底にある、債権と債務を管理しやすくするための信用取引・清算システムだったのだ。」

と、『21世紀の貨幣論』には記載されています。

 

 

人類学者が調べたのは、古代メソポタミアやヤップ島だけではありません。

様々な時期の様々な社会を調べました。

長年の調査の結果に対する人類学者や一部の経済学者の同じようなコメントが、『21世紀の貨幣論』に長々と記載されていますが、その結論部を抜き出します。

21世紀初めには、実証的証拠に関心を持つ学者の間で、物々交換から貨幣が生まれたという従来の考え方はまちがっているというコンセンサスができあがっていた。経済学の世界ではこれは珍しいことである。人類学者のデビッド・グレーバーは2011年に(引用者注:2011年は『負債論』のこと)次のように冷ややかに説明している。
『そうしたことが起きたという証拠は一つもなく、そうしたことが起きなかったことを示唆する証拠は山ほどある。』」

 

貨幣は物々交換から生まれたものではありませんでした。

そうすると、貨幣は何から生まれたのでしょう?

言うまでもなく負債と信用の関係から貨幣は生まれたのです。

 

 

最後にハイマン・ミンスキー(師はシュンペーターとレオンチェフ、MMTerのランダル・レイは弟子)の言葉でこの記事を締めくくります。

「誰でも貨幣を創造できる。」「問題は、その貨幣を受け入れさせることにある。」

これは「誰でも負債(借用証書)を創造できる」「問題は、その負債(借用証書)を受け入れさせることにある。」と言い換えることができます。

 

本当に誰でも貨幣(借用証書)を作れるのかというと、企業は手形という借用証書を発行できます。

また、個人でも小切手という借用証書を発行することができます。

 

『21世紀の貨幣論』には2001年のアルゼンチンでの金融危機で実際に起ったことが記載されています。

政府は銀行システムの流動性を維持するために、銀行預金の引き出しを厳しく制限しました。

お金が突然なくなるという緊急事態において、代替貨幣(トークン)が自然発生的に生まれました。

州や市はもちろん、スーパーマーケットチェーンまでが独自の借用書を発行し始め、借用書はまたたく間に通貨として流通するようになりました。

 

このように本当に「誰でも貨幣を創造できる」のです。

では「誰でも貨幣を創造できる」のなら、なぜ、国定貨幣がその国内の最大の主流通貨として流通しているのでしょうか?

 

 

次回のコラムで、このことを「租税貨幣論」で解説します。

 

(了)

皆さん、はじめまして。

sorata31と申します。

この記事が拙ブログの初投稿になります。

 

 

このブログは誤解されがちな思想を解説するブログになります。

 

記念すべき初回の記事は、某所で話題?になっている準備預金制度の解説となります。

 

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準備預金制度は、一般的に、銀行が預金者の引出しに応じるため中央銀行(日本では日銀)にお金を預けておく制度と理解されています。

が、しかし、日本の準備預金制度の詳細は、ほとんど解説されることがないため、あまり知られていません。

日本銀行や市中銀行に関する書籍でも、数行触れられていればラッキーという有様です。

 

そこで今回は、あまり知られていない日本の準備預金制度の解説をします。

 

 

日本における準備預金制度は、1957年に「準備預金制度に関する法律」という法律で施行されました。

以下のサイトに法律原文が記載されていますが、書かれていることが難しく、一般人にはイマイチわかりません。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=332AC0000000135&openerCode=1

 

日本銀行も解りにくいと思ったのか、この法律の解説記事を出しています。

http://www3.boj.or.jp/josa/past_release/chosa195706i.pdf

 

今回の解説は、この日銀の解説記事の要点を掻い摘む形で、日本の準備預金制度を紹介していきます。

 

①法律の目的

準備預金制度は各国で施行されていますが、その目的は大きく2つあります。

『預金者保護』『通貨調節手段』です。

 

『預金者保護』というのは、預金者の引出しに応じるための支払準備金を中央銀行に強制的に預け入れさせる、というものです。

もう一方の『通貨調節手段』は、後述する「準備率」を上下させることで、銀行の信用創造機能を通して、市場での資金需給を調整する、というものです。

 

準備預金制度は歴史的には『預金者保護』として生まれましたが、

諸外国では『通貨調節手段』として準備預金制度を設けている国が多く、

『預金者保護』と『通貨調節手段』の両方を目的としている国も存在するようです。

 

日本ではどうかというと、準備預金制度を『通貨調節手段』を目的として整備しました。

『預金者保護』が目的ではないのです。
実際、法律の目的が記されている第1条にも「通貨調節手段としての準備預金制度」と記載されています。
そのため、制度の名前も、『預金者保護』を意味する「支払準備制度」という名前を避け、「準備預金制度」という名前になっています。

 

ただし、現在は、日本含め世界各国で『通貨調節手段』の意味合いは薄くなっています。

短期金融市場を通して通貨調節をするようになっていったためです。

 

②日銀当座預金

中央銀行の当座預金口座とは、市中銀行などの金融機関や政府が日本銀行に開設が義務付けられている口座のことです。

当座預金なので基本的には無利子になります。

銀行が日銀当座預金口座から引き出すと、同額の現金、つまり日本銀行券が銀行に供給されます。

この日本銀行券の供給は、発券とも言われています。

これは日本銀行券は、日銀の外に出ることで初めて、紙幣に記載されている額の価値を持つからです。日銀の中にいる間は、日本銀行券は価値を持ちません。複雑な偽造防止処理を施されたただの紙切れです

ちなみに、日銀当座預金と日本銀行券を合わせて「ベースマネー」と呼ばれています。


さて、この日銀当座預金には3つの役割があるとされています。
  (1)金融機関が他の金融機関・日本銀行・国と取引を行う際の「決済手段」
  (2)金融機関が個人や企業などの顧客に支払う現金通貨の「支払準備」
  (3)準備預金制度の対象となっている金融機関の「準備預金」

 

準備預金制度は、(3)の市中銀行などの特定の金融機関が日銀当座預金へ一定金額預ければならない制度、ということになります。

この一定金額、つまり日銀に預け入れる最低金額のことを、「法定準備預金額」「所要準備額」と呼び、実際に預け入れている金額を「準備預金」と呼びます。

 

③準備率

市中銀行等の金融機関が預金額の「一定比率」以上の金額を日銀当座預金に預け入れるというのが準備預金制度ですが、この比率が「準備率」「法定準備率」「預金準備率」です。

この法律において、準備率の最高限度は10%であり、これを越えることはできないとされています。

その一方で、準備率の最低限度は定められていません。先述したように、準備率の最低限度は『預金者保護』の意味を持つものと考えられるものだからです。

現在の準備率は1991年に設定されたもので、0.05%~1.3%となります。

(金融機関の種類や預金等の種類によって数値が変わります。

定期預金など安定的な預金に対しては数値が低く設定されています。)

具体的な数値は日銀のHPに記載されています。

https://www.boj.or.jp/statistics/boj/other/reservereq/junbi.htm/

 

 

④準備預金の二つの期問

さて、準備預金の金額はどのように計算されているのでしょう。

実は、準備預金を計算するには二つの計算期問があります。

 

1つ目の計算期間は、準備預金額を計算する期間です。

ある月(仮に1月とします)の毎日の終業時における預金残高に、その時の準備率をかけた額の合計をその月の日数で割ります。つまり、毎日の預金残高×準備率の平均です。

 

2つ目の計算期間は、預け金額の計算期間、つまり、1つ目の計算で得られた金額を維持しなければならない期間です。

この期間は当月(1月)の16日から1ヶ月間(2月15日)とされています。

ただし、毎日この準備金を厳格に維持する必要はなく、16日からの1か月間の平均額として充たされていれば良い、とされています。

上述の説明は日銀の紹介記事に解りやすい図があるので、下図にこれを掲載します。

 

 

⑤預け金の額が不足した場合の措置

市中銀行が預け金額を維持できなくても、即座に法律違反になるわけではありません。

ちゃんと救済措置が用意されています。

 

この場合、市中銀行は、不足額に対し一定比率をかけた金額を期日(3月15日)までに日銀に納めればよいのです。日銀はこの金額を期日(4月15日)までに納めます。

 

これまた、日銀の紹介記事に解りやすい図があるので、下図にこれを掲載します。

 

 

 

まとめ

3行でまとめます。

・日本の準備預金制度は『預金者保護』ではなく『通貨調節手段』。

・銀行は預金額に準備率(現在は1%前後)をかけた金額を、後日の指定された期日の間(その月の半月後から1ヶ月間)、日銀当座預金に預けなければならない。

・たとえ準備金が維持できなくても、救済措置が用意されている。

 

これで日本の準備預金制度の解説は以上になります。

読者様にとって、少しでもためになる知識になれば幸いです。

 

(了)