震災発生から2週間半後の2011年3月28日(月)から、わたしの新しい職場での仕事がスタートした。

水道もガスも復旧しておらず、前日の日曜日に、自分の家族と実家の家族とで、秋保にある温泉で日帰り入浴をしての出勤だった。

そのころ、わたしたち家族はわたしの実家へ身を寄せていた。

赤ちゃん連れで、自宅アパートの片づけをするゆとりがなかったのと、当時は食糧の調達にしろ、水の調達にしろ、人出が多いほうが何かとよかった。

 

派遣会社の営業の人と職場を訪れたが、みな慌ただしく動いていて、ゆっくり挨拶もできなかった。

とりあえずそこに座っていてくださいと打ち合わせテーブルに案内されたまま、1時間近く待っていた。

派遣会社の営業の人が次の予定があるので帰ることになり、そこからは一人でただボーっと座るしかなかった。

しばらく経って、ようやく直属の上司となる人が来たが、挨拶をかわすとすぐにわたしが座ることになるデスクに案内され、近くにいた事務の女性に「女子ロッカーの場所とか教えてあげてください」と指示して、また慌ただしく作業にもどった。

 

その部署は震災の被害状況を文科省へ報告するため、大学全体の被害状況を収集し、それを資料としてまとめる業務で大忙しだった。

資料を作成する仕事を担当する数名以外の技術職員は、チームを組んで応急危険度判定に走り回っていた。

夜泊まり込んで作業している人もたくさんいたようだ。

 

状況が状況なので放置されてしまうことも仕方ないし、前職でも出向先などで初めの数日は同じように何もできずに終わってしまうことが多かったので慣れていて、とにかく自分のデスクに座りながら人間観察や状況観察をしていた。

 

昼は持参したおにぎりを食べ、午後になるとコピーの仕事を頼まれた。

その資料は阪神大震災のときの報告書だったのだけど、何百ページもある報告書を10部以上コピーする仕事で、それなりに時間がかかった。

事務の女性にコピー機の使い方やコピー用紙の保管場所を教えてもらいながら作業した。

 

初日の仕事は、こんな程度だったかな。

 

バタバタした状況の中、直属の上司が指示を出せるタイミングで指示をもらい、近くにいる人たちにその都度教えてもらいながら、少しずつ少しずつ仕事に慣れていった。

 

これまでもいろいろな職場で働いたことがあったので、適応力は高くなっていた。

人間観察や状況観察をしていると、この人の業務はこういった内容らしい、この人は教えるのが好きな人(逆に苦手な人)、などなど、いろいろなことが見えてくるので、そうやって空気を読みつつ切り込んでいく術が身についている。

 

さすがに同じ係の人には紹介されたものの、それ以外の人には紹介すらされないまま、わたしは新しい職場で働いていた。

働きはじめて一週間くらい経ったころ、やっと朝礼で「ご紹介するのが遅れてしまいましたが、先週からあいぽんさんが派遣社員として来てくださっています。」と紹介してもらえた。

その一週間の間にも、すでに業務でさまざまな人と関わっていたのだけど、「この人だれだろう?」という目を向けられて「派遣で働くことになった〇〇です。」と自ら名乗ったり、「おつかれさまです。28日から派遣でお世話になっている〇〇と申しますが、この資料をいただけないでしょうか。」と話しかけたり、そんな感じで仕事をしていた。

 

派遣やら転職やら出向やらで、アウェイに飛び込む経験をたくさん積んできたことが役立ったと思う。

ちなみに、この「アウェイ飛び込み能力」ってのは、人生のいろんな場面で役立つので便利だ。笑

 

「CAD操作を伴うこともある事務仕事」という業務内容で、基本的には事務的な補助作業だったが、建築関連の部署ということで、その業務内容に触れられるだけで楽しかった。
大学を卒業してすぐの事務アルバイトで、事務仕事にも慣れていた。(実は建築技術者は単純な事務仕事が苦手な人も多い。)
建築の知識があり、CAD経験も豊富ということで、図面を描く仕事をまかされることも増えていった。
簡単な指示だけで必要な資料を求める精度で仕上げられるということで、次第に信頼を得ていった。(と、自分では思っている。)
 
なにより当時のわたしは、働けるだけでしあわせだった。
仕事内容も震災がらみということで、この震災のさなかで、たとえちっぽけでも自分が何かの役に立てていると思えることが心からうれしかった。
 
(次回へつづく)

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