音を立てずドアが開くとひんやりとした空気が寝室に流れ込む。程なくベッドが軋むと柔らかな肢体が滑り込んできた。熱を帯びたままの髪に覆われた肩先に火照りはなく、しっとりとした感触に掌が吸い付く。
「ごめんなさい、起こしちゃった…」
逃げようとする身体を抱き寄せ、より密度を上げる。
「手術、予定より掛かったみたいだな。」
「うん」
「成功したんだろう?」
「もちろん」
「なら、いい」
胸に顔を埋める寄り添う華奢な身体が俺の熱で徐々に温まっていくのを楽しむ。
“2年間で一人前に”
チームの総底上げに俺たちに許された時間は短い。その約束を果たすためにヘジョンはオーバーワーク気味だ。無理をさせている自覚があるから、慰めだけの言葉はかけない。代わりに、安眠を確保することに心を砕いている。張り詰めた緊張を解し温かく包み込めば、あっという間に意識を手放し眠りに落ちていく。まわした両腕を緩めてみたが、身体を動かす気配すらない。
ならば…
眠りを妨げないよう頭を支え、身体に回していた腕を首の窪みへと移動する。乱れた髪を指で梳きながら顔を覗けば、弧を描く口元は満足げに微笑んでいる。
“人の気も知らないで”
時には愚痴を零したくもなるが、これは院長と3人で合議した決め事。コイツを恨むのは筋違いだ。
だとしても…多少年はいっているが、俺とて健康な身体を持つ男だ。時に辛く感じることもある。
当然だろう? そんな時はこう呟くんだ。
“今に見てろよ” と。
「ユ・ヘジョン先生は?」
「こんにちは、チョ先生。ユ・ヘジョン先生なら食事に…」
「食堂?」
食い気味に質問を重ねるこの美人医師に緊張を感じないのは、これが緊急事態の要請ではなく、個人的な用事と分かるからだ。
「いえ、多分…ホン先生の研究室かと。」
「チホンの?」
「えぇ…」
はてなマークを頭に浮かべ、インジュはチホンの研究室のドアを叩いた。
「どうぞ!」
“勝手に入れということは、イケナイコトの最中ではないってことね”とほくそ笑む。
「ヘジョンはここだって聞いたから!」
両手を白衣のポケットに入れながら歩いていた足がふと止まる。研究室でピクニック???もちろん、新婚カッブルはラグに腰を下ろしているわけでもなくソファーセットに座っているのだが…テーブルの上に並べられたランチはピクニックそのものだ。
「オママゴトは家だけでいいんじゃない?」
チクリと刺すインジュの言葉に苦笑いを浮かべるヘジョン。
「おまえの結婚生活は家の中だけだったのか?」
「だからダメだったとでも?」
「いや、それは夫婦が決めることだから。」
「だからって周りの迷惑も考えなさいよ~」
「そうならないようにここに居るんだ。
ヘジョナ、もっと食え。」
インジュと会話のキャッチボールをしながらも愛妻への世話は怠らない。確かにチホンがマメな一面を持っていると知っていたが、こんなに甲斐甲斐しく働くチホンの姿は衝撃的で、“おどろき” “あきれ” “仄かな羨望” で眼が釘付けになる。
“未練じゃない”
あれだけキッパリと拒絶され傷つけられた過去、そして女のプライド。今更チホンを相手にそんなものを持つ筈もない。でも…疲れた羽を休める場所があったら。そう思うのは当たり前の感情でしょ?患者の命に関わる過酷な日常を送る我々がそれを求めるのは当たり前だもの。
「突っ立ってないで、座れよ。」
「わたしにまで餌くれるの? あっ、ヘジョンの食事にケチつけてるんじゃないのよ。こいつに対してちょっと言いたいだけだからね。」
ウチ等の間に挟まれ、どうしたものかと思案顔の可愛い妹に微笑みかける。かつて、妬み、羨んだヘジョン。いまやホン・ジホン教授夫人として誰もが羨やむ地位に立つというのに、少しも変わらない不思議な娘。
「オンニもどうぞ。先生のサンドウィッチ美味しいですよ。」
「ありがと。せっかく休みなのに、恋女房に出前なんて。あんたにそんな面があったとわね~。」
「あるのさ、こいつにだけは。」
「あ~ら、“ごちそうさま” 」
「オンニ~」
チホンに絡む私にヘジョンの眉が下がる。
「わかってるわよ。ヘジョンが大変だからでしょ?」
「だな」
照れもせずに肯定? あんた本当に変わったわね。
「女房持ちになったのに、まだあんたのこと狙っている女が居るって?」
「みたいだな、ホント迷惑。」
あちゃ、こっちも肯定。随分すなおになったもんねぇ。
「それが心配で食事も睡眠も取れない女房が心配?」
「栄養不足と睡眠不足は正解。原因は不正解。」
「そうなの? ヘジョナ、チホンが悪さしたらすぐに言うのよ~。お姉さんが苛めてあげるから。」
おどける私にヘジョンの緊張がすこし緩んだようだ。
「俺がそんなことする訳ないだろう。出来が悪い後輩の面倒が大変でぶっ倒れる寸前なんだよ。」
「そんなヤワじゃないって何度言っても聞く耳を持たないのは先生でしょ?」
「そうやって過信するのが一番問題なんだ。医者の不養生って知らないのか?医者の代わりは居ても、俺の奥さんの代わりは居ないんだからな。」