自分に向けられた、サンドロの想いは、何なのか?
ヨハネの黙示録12章に絡むものを
無断で描いたことへの憤りなのか?
直接に尋ねたとしても、レオナルドが聞きたい答えは無かったと思います。
サンドロは怒っているのか、悲しんでいるのか、
自分に対しどう思っているのか、気になっていって、
何日も何十日たっても、あの絵が心に残り、
そして、レオナルドは気づいた。
想い・願いを込めたもの・・・
自分はこれまで描いていたか?
過去作を振り返る
1472-75年。
ヴェロッキオ工房で共同制作した「キリストの礼拝」は、二人の天使と三羽の鳥を使って、イエスの異なる時間を表現したものでした。このアイデアはボッティチェリ主導によるもの。
ボッティチェリの師匠フィリッポ・リッピの、プラート大聖堂の「聖ステファノの生涯」「洗礼者ヨハネの生涯」など独創的な異時同図法をみて、「キリストの洗礼」でボッティチェリと共に人に気づかれずに別のテーマを仕掛けることの楽しさを知ったレオナルドは、普通の作品では物足りなくなっていたと思います。
「自分も彼らのように、独創的な仕掛けのあるものを描きたい。」
そうして、「受胎告知」に「死の告知」のテーマを重ねたのは、単に異なる意味(異なる時間)を重ねるためだけのものでした。
1478-80年、猫を抱く聖母子の素描を描いた時期がありました。
ただ猫は、魔の寓意として「最後の晩餐」のユダの近くに描かれる動物でした。
「受胎告知」のテーマにも何点か猫がいるのがあります。
「受胎告知」の猫には、「魔」とは違った寓意をもっていると思うのですが、
それでも聖母子らが猫をしっかりと抱くポーズは、前例が見当たらないものでした。
この素描からみても、普通の人が描かないものを描きたかったとみえます。
レオナルドの聖母子と猫の素描を、当時、ヴェロッキオ工房の兄弟子らが見ていたら、
「何故、イエスに猫を抱かせるのか?どういう意味なのか?」と尋ねたことでしょう。
ボッティチェリなら「直接的すぎるから、やめた方がいい」とアドバイスしたかと思います。
システィーナ礼拝堂の壁画制作に選出されなかったレオナルドは、「マギの礼拝」を請け負いますが、途中放棄しミラノに移転しました。
「キリストの降誕」と「マギの礼拝」の異なる時間を描こうとしたのですが、自分の満足のいくものにはならなかったからで、この祭壇画を待ち望む依頼者や、その教会に通う人たちのことなど、大して気にかけなかったのでしょう。
その後、「マギの礼拝」を納めたのは、ボッティチェリの弟子のフィリッピーノ・リッピでした。
ミラノ移転後、「岩窟の聖母」では、体の一部分を移動させることによって、洗礼者ヨハネの異なる時間をみえるようにしました。「岩窟の聖母」も、独自の仕掛けでもって、普通には判らない異時同図のものが描きたかっただけであり、依頼主の要望は二の次であったのです。
「最後の晩餐」は、レオナルド独自の部分的な移動(マグダラやペテロ&ユダ)のある異時同図法には見えない異時同図法であり、しかもこれまでに比べ、さらに複数の異なる時間でした。
その仕掛けの最も要となる、「ヨハネにマグダラのマリアを兼任させる方法」は、ボッティチェリの作品と関連づけたものでした。
レオナルドは、「最後の晩餐」の異時同図に気づくかどうか、自分のもてる最高の仕掛けある作品を、誰よりもボッティチェリに見てほしかっただろうと思います。