お久しぶりです。
長女ちゃんand次女ちゃんが幼稚園に入ってから、バタバタあせる
長女ちゃんの入園と同時にはじまった初めての体験たちが、
今年は2人分に笑い泣き


そして、
ふたりはいつだってちがう。
仕草とか顔は似てるところもあるのに、
中身は全くちがう。

同じものを見て、
同じものを食べて、
同じものを持って、
同じものを受け取っても、

ふたりは別々の人間。
ふたりは別々の個体。

どちらが良いということも悪いということもなく、
どちらが優れているということも劣っているということもなく、
ふたりはただ、それぞれの存在としてシャッキと立っています。




実家の猫と窓越しに。彼の心の広さ!お願い




自然な相性とか、ここが好きここが嫌いはありますがニヤリ
けど、ふたりとも大好きです。


大好きなので、
嫌いなとこがあったりぶつかったりしても、
それもまるっと大好きの中に入れる。
キャッキャチューうふふ照れの方だけじゃなくて、
ぎゃーゲローうぉりゃームキーの方も大好きに入れます。
大好きが減るとかいうのにもしません。



そうじゃないと、ずっと大好きではいられない。
ぎゃーゲローうぉりゃームキーを「好きが減る」とか「好きならやっちゃダメなこと」「嫌いなのかも」に入れると、
途端に苦しくなるから。
途端に自分責めに入って、
「一緒にいたくない」「いなければいいのに」という極論になるまで我慢するとか耐えるとかいうことになっちゃう。
本心はそうじゃないのに。



ただ、ただ、大好きなんだもん。
大好きでいたいんだもん。
それが本当の心だから。
まっすぐの心だから。





可愛い可愛いの女の子2人♡




このことは、次女ちゃんが2歳になるくらいに薄々認識しはじめていたことです。
本当はだいぶ前から感覚では感じていたのですが、確信という名の「頭の納得」に至らなくて知らんフリしていたことでした。

ずっとすべてのことが、
白!
黒!
白なら絶対に白と呼べるもの以外混ざり物一切禁止!
混ざってたらそれは減点します!
嬉しいなら、「happyるんるん♪」だけ!!
悲しいこととか怒ることとかあったら、そのhappyは減ります!なんならhappyじゃないです!
そして、それを少しでも長く維持しないといけない!という具合に生きてきていて、
本当にめっちゃ難しいことを自分に課していました。




だけれど、体の奥の奥の方で、
言葉にならない「その生き方は好きじゃない」「本当に好きな生き方があるよね」という声がありました。
ずっとずっとずっとありました。


誰にも説明できないし、
自分でも上手く言葉にならない感覚。
それはこれまで「違和感」という言葉にしかならなかったけれど、
わたしにとってはかけがえのない「違和感」でした。



いろんなものや気持ちや出来事や人に
ガンガンぶつかりながら(本人に自覚はなかったけれど、今思うと全部わたし自らぶつかりにいってる)、
その「違和感」の先にあるものを見つけたくて、
わたしは勝手に向かっていました。



そう。
わたしは自分でそっちに向かっていっていました。
「違和感」の先にあるものが何かも知らないし、
どうなるのかもわからないし、
もはや自分が「違和感」の先に向かっていることすらずっと気づいていませんでした。

そして、「違和感」の先にあったのはとってもたくさんあって一言で言うのは大変なのですが。



1番大きいものは、
“わたしはわたしの感じたことを大事にしていいこと”
“わたしはわたしの好きなように決めて、生きていいし、自分の世界は自分で創るんだよ!創っていいんだよ!”
“わたしはずっと愛に溢れてたし、愛されていた”


そして、それを“本当は生まれた時からずーっとしっていた”。
ということです。





彼女たちもしっている。




ガンガンぶつかっていったものにも
人にも
出来事にも
もうほんとに感謝ばかり。
ぶつかりすぎて本当に申し訳ないのですが、
その時、
その場所に、
その瞬間、
その人やものや出来事があったおかげで
今ここのわたしがあります。


このブログを書いているわたしがいます。
呼吸しているわたしがいます。


めちゃくちゃサポートしてもらっていて、
めちゃくちゃ愛してもらっている。
生きてるだけで。
今、この瞬間のその奥には信じられないくらいの瞬間の積み重ねがある。
その瞬間にあったものも出来事も人が込められている。


そして、わたしも、
誰かの今ここをサポートしてきた瞬間のひとり。



わたしたちは、
物質を見るとその目の前の一つなのだけれど、
見えないものでみると途方もないくらいにたくさんの瞬間をはらんでいる。

それらを受け取って、
今ここのわたしは育った。



わたしが世界で一番大好きな場所。小さい頃育った場所。



わたしはうっすら、自分の体の、内側の、奥底で
ずっとそう感じてきていた。


だけど、なにかエビデンスがなければ、
誰かに証明できなければ、
結果を出さなければ、
それはしんじてはいけないんだといつからか自分に枠を作っていた。
それを無かったことにしようと必死になっていた。

エビデンスを探したくていろんなことをしたり、
誰かに証明するために足りないと思っているものを埋めようとしたり、
結果を出すために欠点だと思っているものを克服しようとしたりを
いっぱいいっぱいして疲れて閉じこもった。



克服も、
埋めることも、
何か自分には無いと思っているものを手に入れるためにいろんなことをやるのも、
全部、途中でできなくなった。

それは途中で心と体が拒否するから。
そうじゃないんだよー!っていうわたしから、わたしへの呼びかけ。



疲れて、痛くて、ヒリヒリしたまま
その自分でいることをゆるしたとき(これはもうほぼそうであることを諦めた。そうであってももういいやーーという感じ。“ゆるす♡”かいう感じではなかった)



そうしたらもうほんとに、
ただ、ただ、わたしの中のものはわたしだけでちゃんとしんじてあげよう。
それだけでよかったんだーーーって、
ほんっっとに楽になった。
呼吸がしやすくなった。




なにも証明しなくても、
エビデンスを持ってなくても、
結果を出してなくても、
この心の内側にあるあたたかくて大切にしたいものはわたしが大切に大事にしていいんだ。
しんじていいんだ。



わたしの内側のほのかに光る想いは、
誰の許可もなにかの意味も必要なく、
大切にしたいから大切にしていいんです。


わたしは大切にしたいから、
わたしが大切にするのです。



それだけあったら、もうほんっっとに十分なのです。




ということがわかった。
思い出した。





それってめちゃくちゃ幸せ。
もう、それだけで本気で幸せ。




ずっと知ってたのに、忘れたフリしてた。
知らないフリしてた。
見ないフリしてた。


もう思い出しました。



ただ、それをまっすぐまっすぐみつめつづけるだけだなぁ。
わたしの想いをいつだってみてくことだなぁ。


忘れたフリをしそうになる時はまた、
このブログを読んで思い出そう。



わたしの内側のあたたかな光の想いを、
できるだけ言葉にしたこのブログを。