言葉と音楽
アウシュビッツのあとで、テオドール・アドルノは、
「アウシュビッツのあとで、詩を作ることは、野蛮だ」
と言いましたね。
しかしまた、
その同時代に、アウシュビッツからの生き残りであり戦後ドイツ語で書く最高峰の詩人、パウル・ツェランは、
「もろもろの喪失のただなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。」(*1)
と、力強く、言いました。
では、9.11は、表現できるのか。創作化することは軽薄ではないのか。
その難しさを、実行した、この一枚(CDは自体は他の曲とあわせて2枚)。
あ~、ジャケット、既に変わってるね、と思って買いました。
というのも、
スティーブ・ライヒがこの曲、「WTC 9/11」を今年、発売した時、そのCDジャケット写真が、ジェット機突入直前の写真で、その煽情性に、米国で大規模な非難と毀誉褒貶が沸き立ったのです。
まあ、デザイナーが愚かだっただけですが。この一枚を出すこと自体が、いかに難しいかを感じさせる。
僕が昨日、タワレコで見かけた時は、既にジャケットはこのように変わっていたわけです。
曲自体は、以前、NHKで見た(聞いた)ことありましたが、改めてCDで集中して聞くと、やはりさすがスティーブ・ライヒ。
当時の人々の言葉の音階を、無調的なライヒ独特のミニマル・ミュージックに載せて、不協和音と協和音の闘いであるかのように、演奏されています。
僕達人間は、バラバラにされた現実の悲惨の中で、こうして、悲劇を、ひとつの形で表現することで、乗り越えようとする。
芸術は、人が、運命をただ受け入れるだけである動物以上の何かであろうとするための、必須の何かなのだと思う。だから、
「どんな悲しみでも、それを物語に変えるか、それについて物語れば、堪えられる。」(*2)
★
昨日のご飯です。
アミューズ。アンキモなんだが・・・ものすごく美味いヴァプール・・・。ソースは豚の自家製ハムからのエキスとレモンの組み合わせでこれがまた。サフランのアクセントも。
この店のほとんどスペシャリテという感じの、野菜とシャルキュトリー。
ビスク。まったく臭みの無い、素晴らしいできばえ。エビを詰めたラビオリも素晴らしい。
ぶりの若い身(名前忘却)と牡蠣。相変わらず焼きが天下一品。もうジューシーかつ力強い。
デセール食べて帰宅。
(*1):「パウル・ツェラン詩論集」飯吉光夫訳、静地社、所収"ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶(1958)"Page-60
(*2):「人間の条件」ハンナ・アレント、ちくま学芸文庫、Page-285、アイザック・ディネーセンの言葉の引用。


