薄い一冊の文庫本
おそらくは梅雨は明けているのでしょうけど、雲は重く垂れ込め、ただ、蝉時雨だけが、夏を知らせます。
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リルケ、1922-1926の間の詩から。
ああ 苦しみの風景のうえに重たく垂れさがっている
涙でいっぱいのひとよ じっとこらえている空よ
彼女がなくとき おだやかな夕立が
斜めに走っていくのだ 心の砂層をかすめて
ああ 涙で重たいひとよ あらゆる涙をのせた秤よ
晴れ渡っていたために 自分を空と感じはしなかったのに
いまは宿している雲のために 空であらねばならぬひとよ (後略、*1)
・・・高校1年の夏に、堀辰雄の「風立ちぬ」を読んで、そのまま続けて読んだエッセイに載っていた、リルケ最大の作品「ドゥイノの悲歌」の抜粋訳に衝撃を受けて、初めて詩人の本を買ったのが、当時わずか240円だった、「新潮文庫、リルケ詩集」でした。
その後、シュトゥットガルト版全集の全訳全集や書簡集も手に入れて、インゼル版の原書も入手し、評論も含め、私の本棚は2段にわたってリルケの書物であふれています。
けれど、全ての始まりは、この、薄い、一冊の、文庫本なのです。
こころよわくなると、いつでも、始めの一冊に、僕は還って行きます。僕の還る場所は、実家でも誰かの胸元でもなく、おそらくは、精神の、中なのです。
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いまひとつブログを記述する力が抜けていると感じながら、思います、仕事やイベントは、あいからわず刺激的なのに、と。仕事は、おそらくは大きなのが週明けから、始まる。が、特にそれを記述しようとは感じない。
おそらくは、私はこの場所を、ときめきのために、とっておきたいからなのだ。
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夏は来た。この夏はおそらくとても地味な日々だろう(仕事とレストランイベント除いて)。秋まで、ずっと、お休みの日は、ひとり黙想なのだろう。
5年前の転職後に始めて玉砕した人、のことを何度か書いていた。アプローチしていた頃(アメブロ始める前)もともと隣の部だったのに今は運命のいたずらで同じ課になっちゃったことも(ただしプロジェクトは違うのと人事見る課長は別にいるので、日常の会話は薄い)。
彼女は仕事頑張り屋さんだが、少し体調崩しやすく、月に一度程度、1or2日、お休みする。私は彼女の生活の外側の存在だから、何も出来ない。その無力感も、今の生活の象徴なのか。
復活するたび、出来るだけ自然に、語りかけたりメールで、調子を尋ねる。そのたび、丁寧に、反応や返事が来る。「(移ってきたこの課で)仕事の忙しさに体がびっくりしたみたいで(後略)」とか。
ただそのような、さざ波の音だけが響く、
北の、人の居ない湖のような、
静かな、しかし
美しい日々。