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妄想垂れ流しメモ(仮)

今のところゲームの感想とか考察とか

 気づいたらイシュメルガの考察、最初に書き始めてから1ヶ月も経過してましたw
 今回は、今まで時系列の考察の中でもちょこちょこ個別に書いていたことから、最後にまとめの考察を試みようと思います。

 時系列で読み解きながら、イシュメルガの根本的な行動原理としての《闘争》の原理については意外と理屈が通ってると思いました。
 最初に《至宝》同士の《闘争》によって《巨イナル一》が生まれ、それが《巨イナル一》の原体験となり、そこから分かたれた《七の騎神》もまた《巨イナル一》として再錬成を目指すために《闘争》を行う。故に《巨イナル一》に連なるシステムである《霊場》も、その起動に必ず《闘争》が織り込まれているという。ゲーム的にも戦闘するための理屈として設定が機能しているんですよね。
 そして、《魔女》や《地精》たちは、《騎神》に《起動者》を必要とするという「枷」を設けたことでセーフティとしたわけですが、それが逆に、イシュメルガが《呪い》を用いて人間社会に干渉するための動機になってしまったという皮肉な結果となりました。
 こう見ると、そもそもの争いが全ての過ちで、しかも《騎神》の誕生も、結局は解決策ではなく、あくまで問題の先延ばしにしかならず、むしろより悪い結果を招いた要因となってしまったことが分かります。
 最終的に、イシュメルガが再錬成やドライケルスに非常に人間的な執着を持っていたのも、人間社会に《闘争》を生むために干渉し続けた結果、自分の自我にもその影響が出てしまったということなのだと思います。

 一方で、イシュメルガの暗躍にとって一番重要な要素である《呪い》については、時系列の上でも、かなり唐突に発生しており、その要因がはっきりしていません。
 一応、時代ごとに見れば、《呪い》がどういった経緯を辿って、どの要素がこの時代は強い、というような考察はできるのですが、根本的な発生について、はっきりとしたものは得られませんでした。時系列で追って分かったのは、《呪い》はイシュメルガが意図的に増やせる力ではない、ということぐらいです。
 根拠としては、最初に聖獣アルグレスが《呪い》に浸食されたことにより自らを封印した後は、それと同レベルの《呪い》が直接的には発生していないからです。イシュメルガが《呪い》を少しずつであっても自ら生み出し続けられるなら、《巨イナル黄昏》を起こすためとはいえ、わざわざ《黒キ星杯》を呼び出して《黒の聖獣》となったアルグレスを殺す必要がないんですよね。そうできなかったのは、《呪い》の大部分をアルグレスを封じるのに使ってしまったため、言い換えればアルグレスによって《呪い》の大半を封じられてしまったため、これ以降は《巨イナル黄昏》を起こすまで、限定的な力しか利用できなかったわけです。

 しかし、その限定的な力であっても、人間からすると《贄》のようにその人の運命を狂わせてしまうような強制力を持っています。しかも《呪い》によって選ばれた《贄》が役割を果たす、というのは、個々人の運命は《呪い》によって狂わされるのかもしれませんが、一方で選ばれる人間は違ってもその未来は必ず起こるという《呪い》=《因果律》というぐらい強い力だといえます。
 ただ、そうはいっても、帝国の全ての人が《呪い》で操られているような状況は《巨イナル黄昏》のような状態でないと起こりません。あくまで、《黒の史書》にある予言のような、限定された範囲の中で一部の人間に役割が与えられているのだと思うのです。
 ただ、《贄》がどうやって選ばれるのか、あるいは《贄》に与えられる役割はどういう仕組みで決まるのか、これについてははっきりしていません。普通に考えれば、イシュメルガが仕組んだだろう、というだけの話なのですが、《巨イナル黄昏》のときの《呪い》の様子からすると、《呪い》というのは「自動的」というか「機能的」というか、一種のシステムだと思えるんですよね(軌跡シリーズの世界観としてもその方がしっくりきますし。)。そのシステムに「指向性」を与えているのがイシュメルガというイメージだったのですが、「百日戦役」の前後で起こる《贄》による事件は、ちょっと恣意的なものを強く感じる部分があって、その点がどうしても違和感を感じるんですよね。もちろん、《地精》という直接操れる駒もあるので、例えば、オズボーンに関係する重要な事件等に関しては、ある程度直接介入して、罠にはめるようなことがあったのではないかと思いますけど、人間が人間を罠にはめるときの奸智に長けた行動のような細かいことをイシュメルガが自分自身で行うというのは、いくらイシュメルガが人間的な精神体に育ったといっても、人間臭すぎて逆に腑に落ちない感じがするのです。ドライケルスやオズボーンに呼びかけていた《声》の様子や、最終決戦やその後のリィンとのやり取りでも、執着は感じられますが、それらは強力な欲求の「意思」であって、人間的な打算や狡猾さとはちょっと違うんですよね。
 もし、この違和感を埋めるファクターがあるとすれば、事件に関与していた《地精》の個人のものではないかと思います。
 《巨イナル黄昏》の際に、行動していた《黒のアルベリヒ》には、人間に対する侮蔑や嗜虐心が感じられました。オズボーンを襲った悲劇や《ハーメルの悲劇》といった一連の事件の仕込みには、むしろアルベリヒのような性格の人物の関与を感じます。ただ、フランツ・ラインフォルトが《黒のアルベリヒ》として覚醒するのは、「百日戦役」より数年後になります。《地精》の長が、新しい身体に移る際に、以前の身体がどうなってから移るのかは不明なので、このときに活動していたのがフランツの前のアルベリヒなのか、それとも全然別の《地精》の者だったのかは不明です。

 さて、じゃあ結局《呪い》とは何だったのか。
 考えられるのは、《呪い》もまた《至宝》のシステム的な機能の一つだったのではないか、というものです。特にその効果からあり得そうなのは《焔の至宝》である《紅い聖櫃》が持っていた「精神」に影響する機能だったのではないでしょうか。本来は《呪い》のように人間の負の側面にだけ影響するのではなく、様々な精神や魂に影響するモノだったのでしょうが、《騎神》に分割された際に、限定的な機能がイシュメルガに残っていたのではないかと。(それ故に、《呪い》に関係する事象に対して、《魔女》たちの「精神」を司る魔術が効果があるのではないかと。また真っ先にアルグレスを襲い、初代ローゼリアを殺したのも《呪い》が《至宝》に由来する力だと悟られないためかもしれません。)
 また《紅い聖櫃》は「精神」と共に「魂」も司る力を持っていました。イシュメルガが、オズボーンをドライケルスの生まれ変わりであると判別できたことや、あるいはその転生の可能性を予期できたのも、この力によるものかもしれません。それと「因果律」は本来《幻の至宝》の司る力だとは思うのですが、「魂」というのは「因果律」とも密接に係わるものだと思うので、《呪い》が「因果律」のような強制力を発揮していたのも、その辺りに関係があるのではないかなと。同時に《呪い》が《至宝》の機能であるからこそ、《黒の史書》がこれに由来する「因果律」を記述することができたのではないかと思います。
 ただし、この説の致命的なところは、もし《至宝》が失われた《巨イナル黄昏》後に(つまり「創の軌跡」などで)、何らかの《呪い》が残されていた場合、話が振り出しに戻ってしまうところですね
 でも、少なくとも「再錬成」され不完全ながら《巨イナル一》となったイシュメルガを倒したことで、《至宝》は力を失い、《巨イナル黄昏》は解除され、連動する《呪い》も消えたから、事件が解決したはず、だと思うんですが、霊脈の乱れなんかに《呪い》の残滓なんかがあったりすると…w

 さて、これで9回に渡って書いたイシュメルガの考察も終了です。
 もともと時系列でイシュメルガのことを辿ろうと思ったのは、閃3・4で《呪い》がちょっと便利すぎる道具になってて、もうちょっと納得のいくよう設定の掘り下げをしてみたいな、というところからです。
 また関連する設定の年代のスパンが非常に長く、「帝国の歴史=イシュメルガの陰謀の歴史」という感じなのに、ゲーム内ではバラバラに話が出てくるし、最終的なイシュメルガの野望のところだけがクローズアップされて、それで説明が全部済んだ、みたいになってるのにも違和感があったので、「創の軌跡」でイシュメルガ(あるいは《巨イナル一》)の出番がワンチャンありそうだったので、考察として書いてみました。
 もう発売まで1ヶ月を切りましたが「創の軌跡」発売までの暇つぶしになっていたら幸いです。