鳥羽城
かっては橘氏の居館があり鳥羽殿と称していた地
九鬼嘉隆は橘宗忠をくだし宗忠の娘と婚姻を結び
海に面した標高40mの地に1594年(文禄3年)⿃⽻城を築城
海側に大手門を設けた海城だったと。
鳥羽水族館前に説明板があります
九⻤⽔軍を率いた九⻤嘉隆
石山本願寺と村上水軍に大敗した信長は九鬼嘉隆に命じ
空前の防御力を持った鉄甲船六隻を建造させ毛利・村上水軍を
撃退と九鬼義孝は織田軍に勝利を齎します。
信⻑の死後は秀吉に仕え【関ヶ原の戦い】では、嘉隆は西軍に
子の守隆は東軍に与しどちらが勝っても存続するよう合戦に参加。
西軍敗戦により嘉隆は答志島にて自害 58歳でした。
国道・近鉄の線路を挟んだ向こう側には、九鬼氏の定紋
三頭右巴(さんとうみぎともえ)が掲げられた三の丸跡が見えます。
石段を上り切った地
桜木が沢山植栽されている城山公園
フォットスポットのようです。
本丸跡へ
明治時代に城は取り壊された本丸跡
鳥羽小学校のグランドとして使用されていましたが
石垣は、そのまま利用されていたので遺構として残っています。
本丸跡は、平成23年(2011)~25年に発掘調査が行われ
天守台は、明治期に削平されたことが明らかとなり
本丸御殿、大井戸、排水溝などが確認されました。
本丸・天守跡へ
説明文によると
本丸御殿
「八畳敷上段の間に床、棚、付書院、張台構えの4点揃っている
格式の高い書院が在ったと判明。
天守跡
「三重の天守 内壱重 五間に六間」とあり、3層で望楼型で
あったと推定。
大井戸跡
この大井戸
龍が棲み、井戸は相島(現在のミキモト真珠島)に通じていると言う
伝承があるそうです … って。
想像し難い本丸跡でしたが、この広々とした地を
学童は思い切り駆け回っていたのでしょう。
本丸西側は鳥羽城の中で最も良好に残る所です。
【野面積】の石垣、関ヶ原の戦い以前の石垣が残存
九鬼嘉隆が城主時代に築かれた可能性があるそうです。
折れ曲がった奥の部分は、手前の石垣より新しく【算木積】の
手法が用いられていると言うことは此処は九鬼嘉隆時代の後 ?
ガッタンゴットンと音が聞こえてきます。
近鉄電車 です。
その先の鳥羽湾を眺望と気持ちの良い地でした。
以前から気になっていた鳥羽城跡
昨日訪れてきました。