2012年度 信長塾の開講です。

第1回のテーマは 信長の城づくり事始

 

~小牧山城の発掘調査から~

 

講師は 小牧市教育委員会・文化振興課・考古学専門員の

小野 友紀子氏

 

小牧山城とは 濃尾平野の中に在る標高 85.9mの小山

小牧山に在った城です。

 

信長は 1534年(天文3年)に信秀の三男(二男との説も)として

勝幡城(那古野城説も)に生まれる。

 

18歳(1551年・天文20年)  父・信秀が没し家督を継ぐ。

22歳(1555年・弘治元年)  清須城攻略 那古野城から清須へ

30歳(1563年・永禄6年)  小牧山城を築城 清須(清洲)から移る。

 

尾張を統一し天下統一を目指す信長は 先ずは美濃(岐阜)への

進出の基盤として小牧へと。

 

小牧に関して文字として残されている資料・エピソードは

極めて少ないそうです。

・・・ならば 発掘調査・考古学でと。

 

何もない所に城と町が出来た 城下町の原型を創ったのは信長!!

ただ 城があったとされる所には 鉄筋コンクリート造りの3階4層の

「小牧市歴史博物館」が建てられていて ここに在った城の形は?だと。

 

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31歳(1564年・永禄7年)  犬山城を攻め落とし全尾張を手中にする。

34歳(1567年・永禄10年) 稲葉城を攻略し 小牧山城より移る。

 

これより岐阜と命名 天下布武の印を用いる。

小牧に居たのは4年間 その後小牧山城は廃城となります。

 

43歳(1576年・天正4年)  安土城築城 居城とする。

46歳(1579年・天正7年)  安土城天主閣完成

49歳(1582年・天正10年) 本能寺にて自刃


再び小牧山城が歴史の舞台に現れるのは 

「本能寺の変」後 信長の後継者問題で対立した秀吉と

織田信雄(信長の次男)・家康の戦い 1584年(天正12年)の

「小牧・長久手の戦い」です。

 

家康は 小牧山城跡を大規模に改修をし本陣を構えます。

対する秀吉は 犬山城に陣取り対峙すること半年余 

勝敗決せず和睦となりました。

 

小牧山城が城として使われたのは 2度ということです。

 

そこで 石垣の構築は何時だったのか?

永禄期(信長)か 天正期(家康)か?

 

手作業で行われる発掘により序々に解明されつつある石垣

 

☆ 石垣は上下2段となっていた。

☆ 土塁の下から石積みが出てきた。

☆ 天守の部分を大規模に造成し石垣で囲んでいた。

☆ 新しい石がなく 古い石があり永禄期に使われていたものである。

☆ 石垣の背面構造を詳細に確認

☆ 石材の一部に花崗岩が使われている。

     (花崗岩の産地である 稲葉一鉄の領地・岩崎城からのもの)

☆ 瓦は見つかっていない・・・ということは瓦葺のものではなかった。

 

など 極めて高い水準で造られたいた。

 

本丸を創る際 頂上部分に2m余の盛り土をしていた。

つまり 85.9mと言われている小牧山は 信長によって嵩上げされて

いたと言うことです。


安土城が近世城郭の原型とされていましたが 13年さかのぼっての

小牧山城に安土城の原型があることが明らかになったそうです。

土が主体だった当時の城にない技術を原型として 後の「石の要塞」の

城が築かれていったと考えられています。

 

土で出来た戦闘性の城から 信長以降は権力の象徴として誇示する

見せる城へと変っていきます。

 

戦国武将 信長の創造力・価値観の凄さをうかがい知ることが出来ます。


 

小牧・長久手の戦い後 この地は尾張徳川家の領地となり保護・管理され

1927年(昭和2年)徳川家から国へと寄付された。

 

手付かずの状態であったが故に 日本で最も古い石垣としての

発掘調査の成果がより期待できる地です。


城という文字は 「土」と「成」 土塁で守られていたものが石垣へと変り

古代から近世にかけて築かれた城は30000余あるそうです。

 

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犬山城方面

 

小牧市歴史館の展望台からの眺望です。

訪れた日は生憎の空模様 360度見渡せる尾張平野を一望し

この映像より左側にある稲葉城(岐阜)を攻略して 天下統一への

思いに信長公は燃えていたのでしょう。

 

~ 織田がこね 羽柴がつきし天下餅 座りしままで食うは徳川 ~

 

信長→秀吉→家康と移り行く様を上手く言い表した 江戸時代の

狂歌です。

 

          昨年に続き 「信長塾」の受講 楽しみたいと思います。