応神天皇陵と言った方がポピュラーかも知れません。
全国第2位の巨大さを誇る古墳です。
墳丘長こそ2位ですが、実は墳丘の幅、高さ、表面積、体積は堂々1位です。


古市古墳群が形成されたのは4世紀後半から6世紀前半の約180年間だったそうです。意外と短期集中だったんですね。


[北側]
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■参道
左側は外堤に取り込まれている誉田丸山古墳
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■拝所
19世紀中期に修築。北側の前方部正面に位置します。
真偽のほどは別として、平安中期には既に応神陵と認識されていたようです。
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南北朝、戦国期には戦略上の重要拠点として誉田城がありました。14世紀杉原周防守によって築城され、畠山氏の支城として機能し、三好氏支配に代わり、織田信長により落城します。大坂の陣では道明寺誉田合戦にて薄田氏が布陣しました。

見晴らしのいい墳頂に本丸を置いたのかも知れません。
しかし誉田城の所在が墳丘なのか、八幡宮境内なのか、不明なところが多々あります。
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大仙陵(仁徳陵) の国見城しかり古墳を利用した城は幾つも実例があります。
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■宮内庁書陵部 古市陵墓監区事務所
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参道脇の井戸
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[西側]
北西角の中堤と外濠跡です。外濠跡に水は引き込まれていません。
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随時用地買収しているんでしょうか。北側半分は休閑地。
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外堤より外側の農業用水路です。これが外溝にあたるんでしょうか。
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外堤の上には現在舗装されている農道が通っています。
原則一般車両の通行は禁止。そして栽培中の畑も当然あります。
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おそらく何百年もの長い期間農耕地として使われてきたんでしょう。

史跡内とはいえ地権者の心中も理解できます。
なんせ史跡「応神天皇陵古墳外濠外堤」は1991年指定ですから。

おいおい今さら言うなよ!冗談でしょ?ってσ(^_^;)
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この地点から見た墳丘の往時の姿です。南西部より見ています。
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羽曳野市教育委員会、西之口交友会が史跡地の管理を行っています。
コスモス栽培は美化活動の一環です。
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西側主要道路からの眺め。
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[東側]
南東側から見た中堤です。東高野街道沿いの住宅地が張り付いています。
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東側から見た中堤。木々で内濠が全く見えません。
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写真ではわかりませんが時々遥か遠くに墳頂も見えます。
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左奥が後円部分。右手前にあるのが陪塚の二ツ塚古墳。
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北東部分の中堤。
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[南側]
■放生橋
南側誉田八幡宮 より見る誉田御廟山古墳。
通常は放生川より先は立入禁止です。
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その遥か先に見える御陵入口。
「文久の修陵」以前はこちらに拝所があり陵内御旅所まで渡御がありました。
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陵上にあった誉田八幡宮 奥ノ宮・六角宝殿(護国寺奥ノ院・六角宝堂)。

宝殿の周囲を六角の塗り塀が囲み、参道となる階段の左右に桜を植えられ、
石灯籠20基を並べました。陵内には古松が生い茂り、埴輪も見られました。

麓の宣命場(せんみょうじょう)中門を境に立入禁止とし、侵入者には祟りがあるとされました。祭礼時には神職・社僧の立入が許されていました。
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                        誉田山陵図 西国三十三所名所圖會

墳丘頂上に六角の遺構と道が確認できます。
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                                      誉田山測量図

墳丘の四方には鳥居が立ち、陵墓周辺に多くの堂塔がありました。
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                     誉田八幡宮境内図 社寺境内図資料集成

墳丘への階段の方角が異なるものの詳細に描かれています。
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                            河内国誉田八幡根本社内之図

陵墓修復事業「文久の修陵」により国家祭祀が整備再編されます。
北側に拝所が設置されると御陵内は禁足地とされます。

尊王思想、廃仏毀釈の影響を受けて、1883年に陵墓内の階段や六角堂は撤去されました。


【誉田御廟山古墳】
(読)こんだごびょうやまこふん
(英)Konda-Gobyoyama-Kofun Tumulus
大阪府羽曳野市誉田6丁目

□別称:誉田山古墳、恵我藻伏岡陵、応神天皇陵、誉田城址
□築造年代:5世紀初頭
□被葬者:応神天皇(宮内庁治定)

□墳形:前方後円墳、前後3段、造出両側、盾形2重周濠、2重周庭
      墳丘北西部には活断層・段丘・氾濫原があり734年、16世紀後半
      の地震により崩落。
      東側の二ツ塚古墳を迂回するように内濠・中堤が変形している。
□規模:総長700m、墳丘長425m
      方幅330m、方長213m、方高35m
      円径267m、円高36m、頂径50m、体積143万3,960㎥

      内濠幅60m、中堤幅48m、外濠幅17-40m、外堤幅15-29m
      外溝2m、濠水深1.7-2.5m 
     *古墳東側の外濠・外堤・外溝は2007年検出

□内部構造:竪穴式石室、長持型石棺の一部が露出したことがある。
□外表施設:形象埴輪(家、蓋、盾、靫、甲、草摺、水鳥、魚、鯨、烏賊、
         蛸、河豚、馬)、円筒埴輪(円筒、朝顔Ⅳ、円形)2万本、
         木製品(笠形、蓋形、鋤形、天秤)、土師器、葺石

□陪塚:[宮内庁治定]墓山、向墓山、西馬塚、栗塚、東馬塚、
              サンド山古墳(墳形不明)の6基
     [陵域内陪塚]二ツ塚、誉田丸山古墳 の2基
     [その他]   アリ山、東山、盾塚、珠金塚、鞍塚古墳
     
誉田八幡宮 :長持型石棺の破片、石槨の天井石がある。
          誉田丸山古墳 出土品所蔵 
□茶山遺跡:円筒棺、土師器
  
□史跡:古市古墳群2001年
      応神天皇陵古墳外濠外堤1991年
□世界遺産:暫定リスト2008年

□駐車場:北側は宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所Pなど。
       西側は節度と自己責任を持って主要道路脇や大型店舗Pへ。
       南側は誉田八幡宮東門からの無料P。
       東側は住宅道路ばかりなので誉田八幡宮からの徒歩推奨。