京都暮らしの日々雑感

  【資料頒布のご案内】


ハンドラップ技法とそのためのCBN砥石の使いこなしについて、


その概略を説明した資料を作成・頒布しております。


メールにてご請求いただければ、


返信メールの添付ファイルとしてお届けします(勿論無償です)。


《実務レポート》CBn砥石の使いこなし
【はじめに】 ・・・・・・・・・・・・・・ 3
   【1】ラップ技法とその道具立て ・・・・・・・・・・・・・・ 4
   【2】ラップ工具としてのCBn砥石 ・・・・・・・・・・・・・・ 5
   【3】目立て砥粒の話 ・・・・・・・・・・・・・・ 7
   【4】目立て油の話 ・・・・・・・・・・・・・・ 9
   【5】目立て定盤について ・・・・・・・・・・・・・ 10
   【6】目立て作業での砥石面の整形 ・・・・・・・・・・・・・ 12
   【7】砥石ラップという技法 ・・・・・・・・・・・・・ 14
   【8】遊離砥粒ラップ/湿式の技法からの転換 ・・・・・・・・・・・・・ 16
 鏡面ラップ技法についての補論
   【はじめに】  ・・・・・・・・・・・・・ 18
   【1】「鏡面」とはどのような面をいうのか? ・・・・・・・・・・・・ 19
   【2】超微細加工のための遊離砥粒ラップ/湿式でのラップ技法 ・・・・・ 19
   【3】超微細加工のための固定砥粒ラップ/乾式でのラップ技法 ・・・・・ 21
   【4】補遺:ラップ資材の調達準備のために ・・・・・・・・・・・ 22



一般的には、他に文献資料もほとんど皆無な分野ですから、


何らか役に立つこともあるかと思います。


 請求先メール・アドレス   miwa@miwa-sokuhan,com



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カラスが鳴くから帰ろ

地方自治体の首長というのは、

ある種「大統領制」と言えるから、

専制独裁に傾く傾向もあると言える。

日本の、例えば幕藩体制の下での政治学では、「上御一人」の統治である。

もっとも、江戸時代であっても、実際の政治は多元的な民主制が確立されていたから、

アホな領主が訳の分からないアホな治世に踏み出したりしていると、

周りが、そんな領主を隠居させたり、「主君押し込め」といって換金したりして、

藩の統治を健全化しようと努力していたのである。

 

しかるに、現代の地方自治ではどうなっているか?

何せ、首長から登用された側近達でその周囲を固めているわけだから、

異論・反論・疑問を寄せる人材は煙たくて仕方がない。

発言は封じなければならないし、どこか無難な部署に飛ばさないといけないし、

世が世なら、「出所に及ばず」と鶴首したいところなのである。

 

だから当然、「パワハラ」が蔓延されてくる。

 

その首長のパワハラが問題になると、

これら側近達はどう動いたか。

要するに、上御一人にあくまで忠節を尽くすがごとき弁舌を挙げるのだが、

さっさとその場から逃げて、ひたすら保身に走る。

事態の解決にこそその政治力量が期待されるはずなのだが、

その上御一人の運命に早々と見切りを付けて、

我関せ図を決め込むのである。

従って、上御一人その者が直接に世間と向き合わされ、

世間から小突き回され、避難や誹謗中傷を浴びせかけられ、

挙げ句は、遠きギリシャの民主制で語られる「貝殻追放」の憂き目に遭わされるのである。

側近達に捨てられた、

首長に選んでくれた選挙支持者達にそっぽを向かれた、

マスコミの餌食にされた、

何とも悔しい目に遭わされているわけである。

 

「こんなひどい目に遭わされるほど、俺は悪いことをしたのか?」

 

この首長の怒りは正しい。

問題が生じたその初動での対処を間違えなければ、

こんないびつな事態の進展にはならなかったはずだし、

どいつもこいつも我が身一つの保身にそれぞれ勝手に走るから、

事態の沈静化も収拾も付かなくなったし、

結局、首長一人が放り捨てられて決着されてしまうというのである。

「パワハラ」と決めつけられたエリートさんが、

よってたかって、衆愚に取り囲まれて、

集団いじめに遭わされているようなものである。

 

この首長が選挙に出馬する際に、

その擁立に努力した党派は、

せめて最後まで庇ってやれよ。

この人物がtが桁ことは、手掛けようとしたことは、

せめて3期12年の成り行きを観ないと正当な評価は難しいだろう。

地方自治体の「改革」というのは、」生半可なものではないだろう。

 

・・・と、私は考えているんだけれども、

この県庁にも「旧い体質」「旧い政治」が根深くあるわけだ。

結局、この首長はこれらに敗北したという無残な結果でしかないのだが、

この人物を追放し抹消したからといって、県政が多少でも良くなると見通せるのだろうか。

しかるべき人材を潰して回ることには皆が熱中するのだが、

そのような逸材を擁護し擁立し、支持支援するということはめったにないというのが、

この世の習いとなっている。

こんなことをやっているから、日本社会の未来が暗鬱なものになる。

 

「貧すれば鈍す」か?

今朝(9/17)の朝日新聞朝刊、一面トップ。

安部さんと、当時の統一教会の最高幹部との会談の事実と、

一同打ち揃っての記念写真とがスクープされている。

情報の出所が統一協会側からのものであることは一目瞭然であるし、

この状況下においての情報漏出は、

何等かの意図目的が込められたものであることは、論を待たない。

朝日新聞社は、その意図目的を十分に弁えた上で、

この「スクープ」をありがたく押し頂いた上で、

統一協会側のスポークスマンを相務めたことになる。

何とも「使い勝手の良い」マスコミ媒体なのである。

級統一協会側からの現時点での最高目的は、

宗教法人格の剥奪をとにかく阻止することに尽きるはずなのだが、

そのためには。問答無用で自民党を潰せ!という

そういった「棒りゃぃ」に、謀略」に、朝日新聞社は総体で対で加担するということなのである。

SNS軟化で騒がれているファイク・ニュースの拡散より、

いっそうタチが悪く犯罪的ででもある。

 

彫刻機を活用する

加齢とか糖尿病とか、いろいろな原因が適辞されるのだが、

一応はその治療が成功して、失明しなくて済んだのだが、

状況が安定した結果、

やはり、何等かの障害が残ることはやむを得ない。

ラップ技法等、ゲージ屋稼業そのものについては障害が残らなかった、何とか復活できたのだが、

刻印打刻という、ゲージ屋稼業においては付加的な「余技「で障害が健著であったというのは、

いかにも無念なことなのである。

 

 

それで、刻印打刻が不調法なことになって、

さすがに「何とかならんは仮名欄か?」というクレームが付いた。

提案の一つが、レーザー・マーカーで刻字する専門業者に委託してはどうか」という。

その予定価格というモノそんな価格をそのまま納得するユーザーがあり得るのか?という話はともかく、

ゲージ本体を製作する私の立ち位置から言えば、

ゲージ製作を止めて、レーザー・マーカー専門業者になった方が

遙かに仕事が楽で良く儲かるという話なのである。

ゲージ屋のやる気を削いでしまう話であった。

 

手動式の超刻字は既に持っているので、

ゲージの刻字刻印程度のことは十分対応できるモノなのだが、

コンピュータ制御のレーザーマーカーでないと値打ちがないような意識が世間にはあって、

前世紀の遺物であるかのような彫刻機での仕事では、

何やらユーザー側の「有難味」を損なうといった、

言い替えると、

彫刻機での仕事では十分な対価が得られないが、

設備コストが高いレーザーマーカーでの仕事には、その値打ちを認めて十分な対価を払いましょう、という。

そういう営業上の流儀が成り立っているような気配である。

 

当方としては、手打ちの刻印打刻では不都合が生じてしまうというのでは、

その代替手段として彫刻機を活用するという、

そういうことで当面の問題解決が図られる。

 

予想価格を聞いて驚愕した。

迷走台風

とんだ台風10号。

ここだけの話、

多分、四国ぐらいのところで、

立ち腐れ(動きが止まって、そのまま衰滅してしまう)となるだろうと、

密かに思っているのだが。

九州や四国、東海や関東では大雨に見舞われていうのに、

京都では、今日は、昼から日差しが射し込んでくるという、

なんともはや、平和な8月の終わり。

 

もっとも、9月に来襲してくる台風の場合はこうはいかないだろうし、

いずれ超巨大台風に見舞われることがあるかも知れない。

油断してはならないぞ!と気を引き締めねば。

 

しかしまあ、

地震のニュースや台風のニュースが報じられる度に、

「京都は千年の都やさかい」とか、「天災に見舞われることも少ない土地やさかい」と、

京都人は言い交わすのだが、

そんなことはないわけで、

世間並みには、天災にも人災にも見舞われてきているわけで、

変な楽観論で慰められるわけにはいかない。

 

 

 

 

 

昔の名前で出ています(by 小林旭)

立憲民主党でも党首選挙が取り組まれるということで、

現党首がすっかり見切りを付けられて、

いつのまにやら過去の人となっていたかと思われていた方が、

立候補すべきと取り沙汰されている。

 

要するに、

「こっちの水は甘いよ」と団扇で煽られるっと、

前後の見境もなく、とにかく選挙には勝ちたいと、

野党統一とか何とかの屁理屈を付けて、

あっちに嫌われこっちに絶交されて、

どうにも収拾がつかなくなってしまった結果、

まるで墓場から過去の人を引きずり出して、

そう、古典落語で有名な『らくだ』そのままに、

使える者はどこからでも良いから引っ張り出そうというわけだ。使える者はどこからでも良いから引っ張り出そうというわけだ。

 

一発芸に縋るお笑い芸人が、逆に笑い者にされて退場したかと思ったら、

今度は、多少とも「目先を変える」ことになるんだろうか。

 

「英雄は二度死ぬ」というと、

ハードボイルドタッチのサスペンスドラマになりそうなのだが、

今度は誰が出ても「ズダボロ」にされてしまいそうだから、

そんなことは誰も考えない。

ギャグにもならない醜態・腐臭を感じるのである。ギャグにもならない醜態・腐臭を感じるのである。

そこで、党の創業者が、いわゆる「製造者責任を負うべし」と、

立候補されるそうなのだが、

いわば「解党的出直し」で、文字通りの党の立て直しを宣言した方が良いのではないのか?

 

「磨く」ということの聞き合わせ

たまたまのことになるんだろうが、

アルカンサス砥石を使って、青粉(酸化クロム粉末)を活用して、

研磨作業をしているという方からの聞き合わせがあった。

勿論、当方で答えられることについてはできる限りの回答はするのだが、

「磨く」という作業は、その歴史は縄文の昔に遡るものであるし、

磨きの技法は、おおよそ想像以上に広範な適用領域が形成されてきた。

従って、「一般的にどうか」という設問には答えがたいし、

「こんな場合にはどうか」という個別具体的な事例に際しては、

それこそ山のように多咲いたような技法が可能となるから、

一義的に明快な回答が可能となるわけではない。

従って、様々な事例に対して、

それぞれ具体的に理解を深めて修得していくという姿勢が必要なのだが、

そうではなくて、現在的に自分が携わっている作業について、

これさえ学んでおくべき「ノウ・ハウ」なり「こつ」というものがあるはずで、

それさえゲットすれば問題は解決するという期待があって、

それが得られなければ途端に関心を喪うといったケースも多い。

「日暮れ手道遠し」というか、

磨くという世界は、それほど深く広いものなのである。

 

私の場合、稼業がゲージ屋であったからといって、

最初からゲージ製作に興味があったわけではない。

想い返すと、

高校生の時、高校の「天文気象地学クラブ」で、

夜は望遠鏡をのぞき、

昼は、化石掘りや標本になる岩石探しをしていたりしていたのだが、

ある日、岩石標本(プラ羽ラート)作りをするという機会があった。

ガラス板片に岩石標本とすべき岩石片を接着してものを、

C砥粒と水を使って薄く研削していくというもので、

その岩石片が薄くなればなるほど、顕微鏡でのぞいた場合の結晶状態がよく見える。

薄く研磨する場合、下手をすると作業がぐらついて、ガラス片面を傷つけてしまう。

これも一つの熟練の作業だったのだが、

結構熱中したわけだ。

例えば、京都の国立博物館に見学に行った際、

極めて精緻に磨かれた漆器がどのように完成されたか、

螺鈿作りの表面がどういうように仕上げられたのか、

とても人技とは思えないような魅惑を覚えたものだった。

このことは、今の今でも変わらない。

 

放電加工機やマシニングセンターを駆使する技術者は数多存在されているのだが、

その機械加工痕を消除するという点はどう考えられているのか、

最終的には人の手による作業に依存するほかないということになるのだろうが、

しかしながら、この面での技術的要求には大きなものがあるだろうと思うのである。

 

従っての話だが、

加工痕を消除する、

できれば、加工痕の如何なる痕跡も消除するという技法が、広く普及されるべきなのである。

 

もう秋(?)

昨日は結構強い9雨に見舞われて、

今朝というか、深夜に仕事場に赴こうとしていると、

そこかしこに虫の音が聞こえてきている。

昔からそうだったのだが、

五山の送り火を観望する際には虫の音が聞かれるという季節感があったのだが、

この猛暑・酷暑の日々にありながら、

季節は確実に進んでいるという訳なのである。

9月になると、

台風がこの京都に襲来するということで、

相国寺の松林を吹き渡る風の音と足下の虫の音とが交響するという、

なかなかに得がたい体感を経験することができる。

 

 

 

 

限界ゲージ方式の原理について

限界ゲージ方式とは、

それぞれ個別に製作された部品を組み合わせて組み立てる場合に、

各部品の間での「互換性」を確保されるように、

それぞれの部品の製作に際して、一定の寸法精度が確保されている必要があるという、

実際の必要に基づいた製作技法の原理である。

例えば、一定の寸歩に加工されている「穴」に「軸」をはめ込まなければならない場合、

その軸の外径は、対応するべき穴の内径よりも小さく仕立て上げられていないと、

その軸は穴にはめ込まれない。

しかしその一方で、軸の外径が穴の内径に対して小さすぎるとなると、

うまく穴軸がうまくはめ込まれるというわけにはいかない。

こうして、穴がどのように内径仕立てがなされないといけないか、

その穴に対して、軸の外径がどのような寸法範囲で仕立て上げられないといけないかが、

規格として定められることになる。

 

以上の原理は、いわゆる「フォード式生産方式」として、

アメリカでの自動車の大量生産体系の下で確立された生産原理であって、

限界ゲージという検査工具が発明されたわけである。

 

ハサミゲージというものは、この「軸」の加工製作において使用される代表的な検査工具で、

製作すべき軸の寸法上限をハサミゲージの「通り部」とし、下限を「止まり部」として、

ワークの軸径がハサミゲージの通り部を通過し、止まり部を通過しないということが確認されて、

その軸径がうまく製作されたということが確証されるわけである。

 

この場合、ワークの製作寸法の上限・下限の寸法値は確定的な数値として一義的に定まるのだが、

その数値通りにハサミゲージの測定部が製作可能かどうかが、実務的には問題となる。

この問題は、ハサミゲージ製作技法での様々な問題点と、

その寸法値を計測する寸法測定技法での様々な問題が絡む問題であって、

結論として、ハサミゲージの製作寸法につき、一定の「製作公差」を許容している。

 

つまり、

ワークの製作に際して、大量生産の場合には特に、一定の製作許容幅が認められ、

その製作許容幅を念頭に踏まえて、ハサミゲージの測定部寸法値が決まるのだが、

その測定部寸法値に対して、ここでも製作公差幅が認容される。

詰まるところ、ゲージ測定部の寸法値というものは、

ゲージ製作公差幅に入っていれば良いというものとなる。

ゲージの製作公差幅を認容しないと、その製作は著しく困難であるという現実認識に基づく。

 

 

以上のことは、

いわゆる限界ゲージ方式の原理と実際の必要性を解説する場合の「基礎の基礎」なのである。

従って、ハサミゲージ製作者としてのその修練課程として、

先ず±5㎛、次には±3㎛、。・・・±1㎛の範囲内で寸法仕立てができるようにして、

そういうプロセスを辿ることによって、

最終的に、究極の完遂態として±0、つまりジャスト寸法ゲージが完成すると見做される。

こういう思念に基づいて、一般のゲージ業界ではゲージ製作が進められ、

あるいは、新人が研修で製作技法を修得すべく教育訓練がなされてきたのだったが、

これとは全く別異な理解に基づいてゲージ製作技法を追求する立場があったのである。

 

その立場というのは、ハサミゲージ製作に際して、

その製作公差の許容というのは必然必須なものかどうか、という視座である。

特定の寸法値が一義的に求められる場合、

その場合に必須必然的に製作公差を認めるということは「背理」なのであって、

一義的に寸法値が要求されるならば、一義的にその寸法を実現するべきなのである。

具体的に違いを述べると、

一定の範囲内での製作公差を認めると言うことは、

その製作公差内に寸法値が入っていれば、そのゲージは「合格」品と見做されるのに対し

製作公差が許容されていない場合、もしも実際の製作寸法がそこから逸脱している場合、

その逸脱か過大であれば当然「不合格」であるにしろ、

逸脱が僅少であれば、「🈴」として取り扱って良いかどうかが別途判断される。

当該ゲージの取り扱いも違ってくるわけである。

従って、ジャスト寸法ゲージの製作を修得する課程においても、

修得すべきポイントの置き方が変わってくる。

 

ハサミゲージの製作において、

その測定部の仕立て上げにおいて、その製作公差を認めるということが当然の前提とはされるが、

しかしながら、ゲージ製作者の収斂の有り様として、

当初よりジャスト寸法ゲージの製作を修練課題とするのを当然とする立場があって、

その技法が、今や、主流のゲージ業界にあっては《既に見失われた技法》となってきたのであった。

 

五山の送り火

今日16日は、京都では五山の送り火が挙行される。

お盆でこの現世にに戻ってこられた御先祖の霊を、あの世に再び戻される行事である

そもそも、先祖供養といった行事は、個々の家庭でのプライベートなものであるはずなのだが、

それを洛中全体での取り組み行事と構想したのが凄いことなのである。

日本人の歴史的な宗教意識として、

決して「家内安全」にとどまらない共同体意識の発露が認められるのであって、

その意味では、言わば中世と近代が共時的に立ち現れる瞬間なのである。

 

京都では、五山の送り火があって、

子供たちの健やかな成長を祀る地蔵盆があって、

あるいは、化野・念仏寺の千灯供養がなされて、

夏が終わる。

 

 「盆踊り」というイベントがあちこちで繰り広げられて、

言わば夏の観光行事化されて報道される趣もあるのだが、

そのルーツというものが奈辺にあるのかはよく分かってはいないらしい。

その一つの見方として、

一遍智真の時宗による踊り念仏がある、

 

庶民信仰という視角から除くと、いろいろと興味深いものがある。

 

 

キー溝幅ゲージの製作

キー溝幅ゲージの製作見積もりについて、

ある工具屋さんから照会があった。

ご丁寧にいろいろな前回製作メーカーによる資料を付けてくれたのだが、

どうも、平面研削盤で機械製作したものが納入されていたらしいことが分かる。

つまり、今回の見積もり照会は、

機械製作したキー溝幅ゲージで良いという趣旨によるもので、

従って、私どものように、ハンドラップ技法に拠る製作でなくても良いということになるから、

これはもう、見積もり辞退する以外にないという判断になる。

そもそも、機械加工仕立てによるキー溝幅ゲージが前回受け入れられたのであれば、

今回も機械加工仕立てのゲージを発注すれば足りるわけで、

メーカーをわざわざ変える必要もないし、

価格が動向というのであれば、何もゲージメーカーに依頼するまでもなく、

普段、平面研削盤で部品加工を行っているところであれば、

十分に対応できるはずのものであって、

ゲージメーカーに限定して見積もり照会をするまでもないはずのものなのである。

ゲージと名前がつけば、それはゲージ屋のみが受託すべき仕事であるべしという理屈はないのである。

 

ゲージメーカーの仕事というのは、

第一に、焼き入れ硬化処理した鉄鋼材料を加工するという特質がある。

第二に、その加工技術として専らラップ技法に拠り、精密・精確な仕立て上げが求められる。

第三に、その加工技術を支えるべき、超精密測定技術が準備されていなければならない。

一応はこのような指摘がなされてきたのだが、

一般の工作機械の精度が格段に発展してきたことと、

各種の精密測定機器の発達によって、

ゲージメーカーの優位性というものがだんだんと見えなくなってきているのが現状である。

 

しかしながら、ハサミゲージの製作を機械化するという試みが成功していないように、

ゲージはラップ技法に基づいて製作されるべしという原則は変わることがないのである。

 

 

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