朝。
地震の影響により、時刻表を失った地下鉄を待っている私。
隣の若い女性は携帯を手に、小声で身内の確認をしている様子。
女性は、突然、嗚咽と共に泣き崩れ、うずくまる。
地下鉄の冷たい床に吸い込まれるように、若い女性の全てが落下した。
目の当たりにした、愛する身内の、その突然の生の寸断。
昨夜、TVで見た、町が水で流され、形を失う様子。
箱庭に作った砂の町に、上からジョウロで水を流したような映像。
それはまるで、“神の俯瞰図”であり、現実であると捉えるには
いささか困難な光景であった。
そこには、ただ「抽象」があるだけだった。
私も生きているし、目に見える人々も生きていた。
が、今朝の若い女性を見た途端、
「抽象」が「具体」になった。
“神の俯瞰図”が人間の目になった。
地下鉄を上がった東京の街は、普段と相変わらずの日常だった。
手を繋ぎ、ほほ笑みを交わしながら歩く男女。
飲食店の呼び込みをする店員。
そして、ビビットカラーのパンダの着ぐるみが
固定された満面の笑みでチラシを配る姿……
私はそれら光景を眺めながら歩き、
歩きながら自分の取るべき立場を見失ってしまった。
1000人の死者と、1人の身内の死の悲しみ。
私は身内の1人の死を考え、比較し、その悲しみの重さを考えた。
人間にとって個人の断絶は可能なのかどうか……
死者の顔を実際にこの目で見ていない、重みの無い数多の死。
街に見る数々の笑顔は罪なのか……
どうすればTVに映される1000人という死者の字面を
自身の中で重みのあるものにすることができるか……
私は、その解決に
時間の経過を当てにするような軽率なことだけはしたくないと思う。