遊歩会新春初詣企画は、「大阪七福神巡り&焼肉食べ放題」。「焼肉食べ放題」はメタボ解消の理念に反するのではないかとの批判も内部では強かったが、リーダーO氏の強力な指導力によって実現した。

 111日(日)午前10時に、10名が玉造駅集合。後から一人合流して総勢11名が寿老人を祭る三光神社へと出発。三光神社はやや小高い岡の上にあるが、この岡は真田山とも呼ばれている。かつて大阪城の出城「真田丸」が置かれ、真田幸村 が掘ったという大坂城から当地までの抜け穴の跡が残っている。抜け穴跡を見学した後、20分ほど歩いて福禄寿を祭る長久寺へ。淀君が大阪城築城の余材で建立したとされるが、今は鉄筋コンクリート作りの建物になっている。入口を入るとすぐ左手に立派な福禄寿の像。そこから15分ほど市街地を歩いて弁財天を祭る法案寺へ。聖徳太子が建立したとされる由緒正しい寺である。その次は、毘沙門天を祭る宝満寺(大乗坊)。何故か白菜が供えられていた。日本橋という場所だけあって、メイド喫茶等が林立する中に、ぽつんと建っている。リーダーO氏がフラフラとメイド喫茶に入ろうとするのを皆で押し止めるのに一苦労であった。

 ここから大阪七阪へ。真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂である。上町台地を囲むように、石畳の小道が点在している。真言坂を登ったところにある生國魂神社を皮切りに七坂を登ったり降りたりしながら、途中清水寺から市街地を一望、大阪市唯一の滝と言われる「玉出の滝」を見学し、愛染堂に立ち寄って、布袋尊を祭る四天王寺へ。ここまでで78キロは歩いたであろうか。時刻も午後1時を過ぎていた。

 四天王寺を抜けると、七福神巡りも終盤で後2ヵ所を残すのみ。次の目的地である今宮戎神社はちょうど十日恵比寿のこり福の最中で、山のような参拝客と居並ぶ福娘、林立する商売繁盛の笹。一行はここで一旦バラけて、各自30分ほど見学して再集合することとした。私は境内を一通り見学した後、多少時間が余ったので出店が立ち並ぶ参道を歩いていたが、ふと見るとHR氏がビール片手にイカ焼きを食っているではないか! HR氏は遊歩会建て直しのための特別対策チームの一員である。率先してメタボ解消に邁進すべき立場にある。HR氏の堕落と背信行為を目の当たりにして、私は憤懣やるかたない気持ちであった。

 ともあれ、いよいよ最後の目的地である大国主神社へ。大国主神社は名前の通り大黒天を祭っている。ちょうど「大国まつり」の最中で、参拝客で溢れていた。時刻はすでに午後2時を過ぎ。一行の頭の中はもはや焼肉で一杯の状態。七福神巡りをやり遂げたという宗教的情操などもはや欠片もなく、欲望がむき出しという状態であった。

 午後3時、JR芦原橋駅近くの焼肉屋に到着。1,000円食べ放題! 空腹に突き動かされ、本能のまま肉に群がる一行の様は、もはや動物でしかない。制限時間の90分間、食いに食い、飲みに飲み、一行の満足しきった顔に、私は人間の性の悲しみを見た。しかし、これで本稿を終えるわけには行かない。こともあろうにHR氏はこの後更に天六飲み屋街に繰り出して行ったのである。放縦の限りを尽くすHR氏と言い、内部批判を封殺して「焼肉食べ放題」を推し進めたリーダーO氏と言い、遊歩会建て直しを使命としている特別対策チームの一部メンバーこそが実は遊歩会を変質させている実態が白日の下に晒された一日であった。

~解決報告~
退職勧奨・自宅待機・配転・府労委へ申立・和解・継続雇用

□平成26年2月26日 退職勧奨を受ける

某教育関連企業に勤務する私は、定年(60才)を1年後に控え会社から退職勧奨を受けました。翌日、管理職ユニオンへ電話し相談、その翌日には事務所へ出向き直接話を伺いました。しかし、会社は1週間後再び退職勧奨を実施しました。

□平成26年3月8日 管理職ユニオン・関西へ加入し、団体交渉を申し入れる

組合加入は正直なところ迷いましたが、「30年以上も会社に尽くしてきて定年の1年前に辞めろと言われたら怒らなあかん」という岡本さんの一言で組合加入を決めました。この日以降会社からの退職勧奨はピタリと止まりました。ただ、会社は過去の書類等を引っ張り出して私の荒探しを始めました。また、パソコンのデータ・メール記録・インターネットの閲覧ログ・社内データベースへのログ等も調べられました。更に何日間は尾行がついたりもしました。ここからおよそ1年に亘る会社との闘争が始まりました。

□平成26年3月28日 団体交渉(第1回)

この席で会社は、事前協議を実施しないまま4月1日以降は所属部署がなくなり自宅待機になると発言し、3月31日には自宅待機命令を発しました。その後再三にわたり組合から会社へ団交を申し入れましたが、会社はこれを拒否しました。

□平成26年4月21日 府労委へ不当労働行為救済申立を行う

会社の団交拒否に対抗するため、大阪府労働委員会へ労働組合法第7条第2号違反(団交拒否)における不当労働行為救済申立を行ないました。これより月1回のペースで労働委員会が開催され天満橋のエル大阪まで出向くことになりました。この時苦労したのは「申立書」や「準備書面」の作成です。何分初めてのことなので「活用しよう労働委員会」という冊子を片手に夜遅くまでパソコンに向かいました。

申立により数日で会社が動きました。出社命令、配転辞令です。自宅待機は解除されましたが、大阪市内から奈良市内への配転、内勤から外回りの営業へと180°労働環境が変化しました。

□平成26年6月2日 団体交渉(第2回)、7月11日 団体交渉(第3回)

この2回の団交で、自宅待機の決定権者や辞令に記載されていない業務付加への質問を実施しましたが、会社からは「答えられない」の連発で誠意ある対応が示されませんでした。

□平成26年7月28日 府労委へ不当労働行為救済申立を行う(2件目)

2回に亘る不誠実な団体交渉を実施したことを踏まえ、大阪府労働委員会へ労働組合

法第7条第2号違反(不誠実団交)における2件目の不当労働行為救済申立を行ないまし

た。この間も上述の通り労働委員会にて月1回会社側と書面での主張を繰り返しました。

□平成26年10月24日 府労委へ不当労働行為救済申立を行う(3件目)

これまでの会社側との書面での主張等を踏まえ、配転や労働条件の変更によって被っ

た不利益を解消するため、労働組合法第7条第1号違反(不利益扱い)における3件目の不当労働行為救済申立を行ないました。これにより3件の事件を併合して調査することになりました。

□平成26年11月26日 団体交渉(第4回)、平成27年1月9日 団体交渉(第5回)

定年が2カ月後に迫ってきたので、より具体的なメリットとして60才以降の継続雇用とその労働条件を交渉の前面に出すことにし、この団交の場でその旨を会社側へ伝えました。条件面で合意できれば組合としても労働委員会で和解し取り下げる用意があると伝えました。

団交から1カ月後、会社より継続雇用の条件提示がありましたが、その内容は勤務形態が週4日になり賃金も年収ベースの月額換算比較で6割を下回るなど認めがたいものでした。その後年末に実施された労働委員会で和解に向けて取り組むよう要請があったので、次回の団交日程を早め年明け早々に実施しました。

この団交で会社側は新たな提案を示さず現状維持に終始したため、和解する意志が会社側にあるのであれば再考するよう組合は強く求めました。その結果、会社側より1週間後に賃金を若干アップした2次案の提示(年収ベースの月額換算比較で6割をやや上回る)がありました。

□平成27年1月20日、1月26日、1月30日 労働委員会での和解交渉

会社より提示された2次案をベースに2週間で3回に亘る労働委員会が開催され、和解交渉を実施しました。組合は更なる上積みを求め会社側とギリギリの交渉を実施しました。その結果、組合の要求と会社側の主張の中間で折り合い、解決金という名目で若干の上積みを勝ち取ることができました。1月31日で定年となるため、まさにギリギリで妥結しました。




60歳定年時の




我が労働条件闘争について


私は昨年の224日に60歳定年を迎えました。ユニオン加入以来会社との緊張関係の3年の歳月が流れ、ようやく一つの人生の節目を迎えたのです。ここで問題になるのは定年以降の再雇用問題です。当然ながら平成254月に改正された高年齢者雇用安定法により私の場合は現在の会社で61歳までの継続雇用は確保されていましたが、今まで会社側とは配転、降格、減給に絡む数度の闘いを行ってきた経緯から、会社側から提示される再雇用時の労働条件はけっして甘くはない事が予想されました。しかしここで私に幸運が訪れたのです。定年9カ月前に会社側からの配転、降格、減給通達です。これのどこが幸運やねんと思われるかもしれませんが、この時期に会社が不利益変更の申入れをしてくれた事によって、団体交渉の中で再雇用条件を念頭に置いた闘いが進められたからであります。

会社は営業部での私の成績不振を理由に、降格・減給の上で製造現場で働けとの申入れをしてきましたが、素直に従う訳もなく団体交渉での戦闘開始です。

この交渉の中で私の持っていた切り札は営業部でのサービス残業の残業代請求です。残業代は営業部所属1年半の期間で223万円余りにもなり、この未払いを請求するぞと会社に要求書を提出した結果、社長とお抱え弁護士は弱り果て、何とか残業代の請求は放棄して欲しいと懇願してくる始末。この絶好のタイミングを逃さず定年再雇用の条件次第で考えると回答したところ、世間の平均的な再雇用時賃金を大きく上回るという会社側から期待以上の回答があり、おおいに満足する結果となりました。そして昨年暮れには今年3月からの2年目の嘱託社員契約についての要求を会社側に突きつけました。その内容は、1年目と同一条件で嘱託社員契約を更新すること、そうでなければ会社側が今まで痛い目に遭った団体交渉で社長を話し合いの場に引きずり出すぞと文書での威嚇射撃を行いました。

これにより、会社側は無抵抗ですんなり同一条件での契約更新を受け入れるということになり、私もすっきりした気分で正月を迎えることになりました。これも今までユニオンを通じて行ってきた闘いの成果であり、ユニオンの力が改めて示されたものと思っています。

現在、嘱託社員として陽気に元気に毎日を過ごしておりますが、65歳までのあと4年は現行の労働条件を維持したまま現在の会社に喰らいついてのんびりと働くつもりです。