私には15歳年の離れた兄がいます。

兄が産まれた15年後にひょっこり私が母のお腹に宿ってしまって「本当は産むのをためらったのよ」と私が大人になってからは誕生日のたびに言われていました。


昭和2年生まれの母は9人兄妹の真ん中で、戦時下では家族で結束してほそぼそと暮らしていたらしいです。わずかなお金があっても世の中に食べるものが無いのだから買うこともできなかった。あなたは好きなものを食べられて幸せねとよく言われていました。確かにそうかもしれません。


母と父は当時では珍しく恋愛結婚だったらしいです。ふたりで会社の帰りによく映画を観に行ったそう。でも母は映画の中のゲーリー・クーパーに夢中で映画の帰り道は父は母の後ろをついてきたということをよく聞かされました。

母いわく「ひとりで(映画の)余韻にひたりたかったのよ」。だって。ひどーい。


戦時中、母は女学生で、女学生たちは兵隊さんの看護をしなくてはならなくて、その流れなのか女学校を卒業したあと看護学校に入ったそう。(母が亡き後司法書士の先生とのやりとりで知りました)。


その後保健婦(今の保健師)になり定年間際まで保健所で働らいてくれたから私も兄もお金に困る事なく暮らすことができました。


母はとにかく兄のことを大切に思っていて兄が結婚したときは実家から歩いて5分程度のところに建つ一戸建ての家をプレゼントしたくらいの可愛がりようで、私は少しだけ兄を羨ましく思っていました。


母と父は共働きだったので、私は祖母に面倒をみてもらっていました。

絵本を読んでくれたのも子守唄を歌ってくれたのも祖母でした。大好きだった優しくて楽しい祖母。


祖母はとても優しい人だったけれど、やっぱり幼稚園に入るか入らないかの私はいつも母にそばにいてほしかった。淋しくて淋しくて仕方がありませんでした。


今は父と母が働いてくれたから貧しい思いをしなかったのだと心から感謝しています。


父は「真面目]を人間の姿にしたような人で、家族旅行に行くのも、釣りに行くときも、何をする時もいつもスーツ姿。

日曜日は自分で靴を磨き、ワイシャツのアイロンかけをするような人でした。


祖母が76歳で亡くなり、翌年には父が55歳で亡くなりました。私が小学6年生の時でした。


父が亡くなったあと、母は精神的に不安定になってしまい(本人はそうとは認めなかったけれど)、兄は父が亡くなってすぐに結婚して実家を出ていったので私が母を支えることになりました。

今で言うヤングケアラーというものだったのかもしれません。


「夜一人で寝るのは怖いから、あなたパパの布団で一緒に寝てよ」「お風呂に入るのが怖いから一緒に入ってよ」

あらゆる母の欲求に私は全力で従っていたつもりでした。でも母にはそれでも足りなかったのだとあとで気づくことになりましたが。。


私が高校生になった頃、「私と母の関係はなんだか変だな?」と思い始めてその頃日本に入ってきた「アダルトチルドレン」とか「条件付きの愛情」などという言葉に出会いワークショップに参加したりもしましたが、参加した方々が他人様の前で親のことを(虐待と言えるようなことや、そうとは思えないこと)口汚く罵るのを聴いていたらなんだか馬鹿馬鹿しくなって2.3度通ったワークショップもそのうち遠のき忘れていきました。


時代はバブル期になり、二十歳を超えた私はとにかく働いた。働けば働くだけお給料を貰えたから昼も夜も社員として、アルバイトとして働き続けました。そうする事で母との距離が離れるという思いもありました。


母の束縛は日に日に激しくなっていきました。

どの子と友達になればいいかと母が選別した子としか話すことも遊ぶことも許されませんでした。


母が定年間際で保健所を辞めたとき「あなたをひとりにしたくないから仕事を辞めるのよ」と言われたことは今でも心に残っています。


母はとても気の強い人だったけれど心の中ははいつも不安で一杯だったんだと思います。

女手ひとつで兄と私を支えてくれたことはそれはそれは大変だっただろうと感謝の思いでいっぱいです。

母は常に強くいる事で自分を保っていたのかもしれないと思います。


母が70歳になった頃、母の胸にしこりがみつかりました。乳癌でした。

母が方胸を切除する手術をする前日、私は母に「病院に泊まろうか?」と聞くと「そんなの必要ないわよ」と激しく拒否されました。

看護師さんに「母のことをよろしくお願いします」と頼むと「手術前は安定剤を飲んでもらうから大丈夫です」というような事を仰っていました。


翌日の朝、母の手術に付きそうために病院に行くと母は「安定剤なんて私は飲まないわ」と拒否したのだと看護師さんから聞かされて、私は大丈夫なのかと心配しながら手術室の赤いランプを見守りました。


手術室から出てきた母は翌日まで眠っていて、目が冷めた時の第一声が「あなた誰?」だったのを思い出します。

私は急いでナースステーションへ行き看護師さんに「母の頭が変なんです」と言ったのも昨日のことのように鮮明に覚えています。

麻酔が効いていてぼんやりしていただけということでした。


こうして書いていると母と私はドタバタコメディのような親娘のようです(笑)


80歳を過ぎると徐々に足腰が弱くなり、買い物にも病院にも一人では行けなくなって、私は実家と自宅マンションを行ったり来たりしながら母の生活を支え始めました。


母はどんな時でも自分の意志を曲げない人で、朝は6時に起き、12時に昼食をとり、8時にお風呂に入り9時に寝る、というルーティーンを決して崩さない人でした。それは寝たきりになるまで続きました。


母は意志が強すぎて、私も時々来る兄も義姉も振り回されることが多かったです。

それでも母は自分の意思を曲げずにたんたんと自分の道を生き続けていました。

母には自分の道がちゃんと見えていて、母のレールを迷うことなくひたすらに歩き続けて終点を迎えて行ってしまいました。


私は母から処世術のようなことを教えて貰った事はないけれど、母の生き方そのものが母が私に与えてくれた処世術だったのだと思います。


80代後半になって介護サービスを受けることになっても「このヘルパーは嫌だわ」「この前のお刺し身が食べたいから隣りの駅まで買いに行って」とお山の大将のように要求が激しかったけれど、私はいつ終わるか分からない母の世界をただひたすらに守り続けていました。


90歳を過ぎて、母の兄妹が次々と亡くなってゆき、母自身ののこれからのことを話しあわなくてはいけなくなった時、母はケアマネに「老人ホームに入るくるいなら死んだほうがマシだわ」と言いました。

私にはそんなことをよく言っていたけれどケアマネに話したのは初めてだったと思います。


ケアマネは母の意志を尊重してくれて、私も母の思い通りに最後を迎えさせてあげたいと心に決めて、「私が今住んでるマンションを売ってここに(実家に)越してくる?」と言ってみました。

私は母は絶対に否定して怒り出すと思っていたけれど、母は「そうしたいならそうすれば」と言ったのです。この言葉は気の強い母の精一杯の願いの言葉だったのだと思います。

兄もそれがいいと言い、私は実家に引っ越して24時間体制で母の介護をする決断をしました。


母は一年ずつ弱っていき、私は母にもっと沢山の事を教えてほしいと思い、一緒に台所にたち天ぷらの揚げ方を教わったりお正月にはおせち料理のお重の作り方を教えてもらいました。

その他の細かな母が元気な頃にしてくれていたた色々な事をまだ足りないまだ足りないと思いながら教えてもらい必死に覚えていきました。もっと時間があったら良かったのに。


母の主治医に「夏まで持たない」と言われた時、「何を言ってるの。私が母を100歳まで生かせるんだから」と強く思い母の身の回りの世話をしたけれど、私の力不足から母は去年4月20日95歳で亡くなってしまいました。

母のように強く厳しくどこまでも自分の信念を曲げずに生きる人は死ぬことなんてないのではないかと本気で思ったこともありました。でもそんなはずはありません。


苦しむこともなく本当にすーっと呼吸が止まってしまいました。訪問看護師に「まだ死んでませんよね、生きてますよね」と何度も聞いたほど。


母は立派な人でした。


最期まで自分の意思を貫き通した強い人でした。わがままもたくさん言ったけれど、あれが母の生き方で、どれほどの苦労と不安を胸に抱きながら人生を全うしたことか。

でもそれを頑なに口にしなかった人だったかと思うと涙が出ます。


私は母の子供に生まれて本当に幸せに思っています。ためらったことがあっただろうけど私を産んでくれてありがとうございました。


私を産んでくれた母とお別れするのが怖くて逃げ出したかったけれど、母の最期を見届けられたことに一年前も今も心から感謝しています。

今は淋しくて淋しくて仕方がありません。


ママ、長いこと私を支えてくれて、私の盾になってくれて守ってくれてありがとう。


ママがいつも私に厳しかった理由が一人きりになった今はよく理解できます。

出来損ないの私のことを厳しく叱ってくれてありがとう。

私の介護の出来はどうだった?不安だった?心安らいだ?


これからの人生はママならばきっとこうするに違いないと思いながら行動し、生きていくことになるでしょう。

まだ私自身の自由がどういうものなのかということがよくわかりません。

そのうち私の自由な人生が見つかる日がくるでしょう。


地球上で一番好きな私の母でした。

ママありがとう。どんなに感謝してもしきれません。


そんなに遠くないいつか、空の上で会いましょう。そしてりんごの木の下でを歌いましょう。


さようならは当分言えそうにありません。

ママ、パパと一緒に元気でいてね。

またいつかね。