「岡村孝子~クールで悲しくて強くてリリカル 内気な少年たちと 占い好きの少女たちへ ~」 -2ページ目

「岡村孝子~クールで悲しくて強くてリリカル 内気な少年たちと 占い好きの少女たちへ ~」

地を這う虫けらのきもち。
憧れの岡村孝子さんのことなど

2021年夏から闘病記も。
勤務先にもバレ、隠す必要がなくなったので。
長年全力で隠してきた分、反動もあって、割とあけすけに。

直近に終了したプログラムA 12か月

 

※担当の方からは、このAを始めるにあたって、リスクの説明と、意思の確認あり

 ex.かなりの苦痛を伴うことになるがそれで良いか・・・はいと回答

   但し医師の判断でプログラムの継続を一方的に止める事がある

   知らぬが仏           

 

成果 ◎病状の把握 (→△副効果も大

    ◎生活状態の把握 (→△同じく大

    ◎治療状態の把握 ex.これまでどれだけ非協力的だったか、     

                    嘘をついていたか

 

 

直後に開始するプログラムB (いつからいつまでとは考えない

 

目標を設定、 到達/不到達する過程  繰り返し

 

開始するかどうかは最終的に本人が決める。決めることのできる状態にないと医師が判断すれば開始することはない

 

開始するための前提条件  かなり意訳

・生活を建て直すつもりがあるか・・・???つもりはあるのでは? どう直すかは見えない

・そもそも生きるつもりでいてもらわないと続かない(ので、ここがゆらいだときはここの立て直しに専念しますよ、と)・・・???

・治るつもりがあるか (治らない事を受け入れられますか、治らずでもやっていくつもりがありますか)・・・???

・治る部分で医師が勧める治療を実際受ける能力・・・???

ex.腫瘍 いくら勧めても受診にすらこぎつけていない 本人では難しいなら管理下にいてもらうほうがいいかもしれない

ex入院 勧めてもNOしか期待できなかったがどうか 例えば月曜からと言われてイメージできるか

・医師に訊かれたことに対し嘘をつかないか 正直に答えるか・・・はい(今度こそ約束して下さいますかと再確認あり。前回までに提出できなかった服薬状態の記録 次回はそこまでこぎつけたらいい、と先生 

 ???の部分はまだ答えなくてもいい 

 

  

近年はやりのお上品な病気ではないものだから、異常を知ったときから、10代の、15になるかならないかのうちに、多くの事を諦めなければならなかった。諦め方は上手な方だったと、振り返ると感心する所もある。多くを諦めて、最後に残った一本道だけを歩けばよいのだから、その歩みは不安定であるけども着実だったかもしれない。しかし、時々大きな山にぶつかりながらも、ここが潮時かなという窮地に立ちながらも、進んでくることができたのは、生きること自体を15,16という早い段階で諦めたから。余生と思えば怖いものも怖くなくなることがある。そのせいもあるのだろう、勤勉、真面目、堅実に一見見えながら、時々投げやりで自暴自棄で自滅的な面が垣間見えて、驚かれることがある。驚かれるという事は、普通は余りそこまで自分を追いつめては人は生きていないということかもしれない。この特異性も生かしようによっては活用する価値があるかもしれないと、思い立つことができたのも、今日まで生きながらえられた理由の一つ。ほんの少し歯車が狂うだけで自滅に向かう危うさはずっと内包してきたもので、予想外に生きながらえたことと一切矛盾する所は無いんだと思う。今直面している問題の一つは、これまで活かしてきたところの、その危うさ、特異性を、活かしきれていない所にあるのかもしれない。

そういえば、と、ふと思うことがあって、甦った記憶があるのですが、

 

これまでにいくつかの山を越えてきた中でも、割と大きな山があって、

当時としてはこれが最後の山なんだろうなと、

そう思うくらいの大きな山だったんですけど、実際土俵際にまで追い込まれていたんですけれども、

 

そんな中で大分状況を分析しました、

当時の記録はもう残っていないので、どのような計算をしたのかは、もう分らないのですけれど、

大まかに言えば、自分は労働力として使い物にはならない、これは確かだろう、社会経済的にみて受益と負担という観点からみると当時は負(ふ)ではあるけれどもその幅はまだ小さい、そして対内的にみてみると、大幅なマイナスとなっている事はこれはまた確かなこと、

では、より対内的に見てみるとどうだろうかと、そこで不意に思いついたわけなんですね、これは当時お世話になっていた指導教官に伝えると、なるほどそういう考え方もあるものかと、妙に感心された思い出があるのです、計算式なんて今では思い出せないのですが、これまた大まかに言いますれば、自分には所得を得る力はほぼないであろう、が、他方で所得を要すると思えるような欲求、これもほぼないぞと、この点では大変バランスが取れていて、自分という人間は実は大変生きやすい人種なのではないかと、そしていくらかでも、もしも、所得を得られたならば、多分余剰が生まれるだろうから、その余った分で、少しずつ対内的な負債も返済していけばいいのではないか、ここでは倒産法の発想を取り入れて、割り切ったのです。

損失の拡大はもちろんこれを防がなくてはなりません、が、返済の余地が僅かでも残っているのならば、能力の範囲内で返済する努力はしなければならないだろう、まずは、その余地があるのかどうかを実際に明らかにして見せる必要があるだろうと、そのようにも考えることから、今に至る道は始まったと思うわけです。

 

もちろん、考え方ひとつで乗り越えられるような易しい事々ではなく、相当な犠牲も払いましたが、他方で、当初自分が予想していたものの数十倍の結果が数字として返ってきたこともまた事実、いつの間にかその時の負債も返済することができましたし、返済する以上に僅かながらの貢献もできたかもしれない、

こう考えると、あのときメモ帳の上でパチパチと計算しながら考えたことは強ち間違いではなかったのかなと、振り返るとそう思えるわけなんですね。

 

さて、今であります。今の山も相当にデカい。これは乗り越える想定をあまりしてこなかった、できなかったんですね、実際に直面してみてもなかなかアイデアは浮かんでこない、諦めるつもりでおりましたからね、当然といえば当然です。が、諦めるつもりでいたのはあの頃も全く同じことでありますから、今もあっさりと、というわけではないだろう、しぶとく何らかの案をひねり出して来るのではないかと、そういう期待はむしろ周囲にあってなかなか困っているのですが、うーん、どうしたものかと、もう少し考えてみなければならないだろうなと、もうちょっとだけ粘ってみるつもりでいるのです。展望は全くありません、なかなかタフな山です。困り果てた、うーん、これも当時の口癖なんですよね、果てた、というにはまだ早い、まだ何もしていないのではないか、これは当時言われたこと。今は言ってくれる人はおりません。

 

 

 

頭のできの良くない人間が何百枚と費やしたって漸くその輪郭だけをおぼろげながら書き出せるかどうか、というところを、いわゆる大家とか泰斗とか言われる巨星は、たった一言たった一行で抉り切ってしまうものだから、もうこれは到底敵わないのですが、その一句一言一行を、それを著した人の水準で理解できる人もまたそう多くはないものだから、ときに論争が湧きおこったり、一部過激で原理主義的な解釈と応用に走る者も現れたりと、なかなか厄介なことになるんですね、もう、書いた以上ちゃんと面倒見てよね、というか、責任とってよ、というか、そんな気にもなっちゃうのですが、当の巨星ご本人はそんな下々の混乱なんてどこ吹く風に既にずっと前に行っちゃってるという、だから私たちなんてものは、ずうっとずうっと昔に書かれた古典と未だに格闘して今日も眠れないわけなんですよね、そんな夜にですね、孝子さんの歌を聞くわけです、そしたら、まあ何と言いますか、孝子さん、面倒見が良いと言いますか・・・

 

見えるものを見えると言えない事が多すぎて

誰も彼も利口に思えて今日も眠れない

 

と、ひと件ですべてを書き尽くしちゃってるのに、解釈が区々に分かれて、なんてことには多分ならなくって、みんな思い当たる節があるものだから、そうそうってなっちゃうんじゃないかな、と。これを書かれたころの孝子さんはそんなに面倒見が良かったわけじゃないと思う、まだ娘さんの生まれるずっと前の事だし、孝子さんご本人がまだ娘さんの頃って言ってもいい、でも、今娘さんに向けられているような眼差しがこの頃既に孝子さんの中にはあって、それが読み手に対して向けられているように感じられて、それはただ一人語りに書かれたものでは無くって、しかも責任は果たされている、と言い換えてみても、そんなに間違いじゃないんじゃないかな、

うん、我ながら何言ってるんだろう?

 

 

初めて聞いたとき、30代の孝子さんがあらためて書いた、“リベルテ、その後”、と受け止めました。迷い、ジレンマ、コンプレックス、などを、受け止めるから受け容れるステージへ進み、自分の生き方を生きる決意を新たにしているという・・・実際自分がこの頃の孝子さんの年齢に追いついたとき、改めてハッとしましたね・・・。

深い海の底から空を見上げる、孝子さんのその目に、怨嗟の色はまったくなくって、自分もそうありたいと、強く願い、自分を戒めたのでした。

CD音源とライブ音源を繊細に組み合わせて下さって、
この年になって新編集ver.を聞けるとは全くもって幸いです。有難うございます。

「大きな海を漂う木の葉のようだわ」「私は変わらずに私でいるしか出来ない」という詞はもはや神の域なんじゃないかと、本当に大好きな曲で、私を今も力づけ続けてくれてます。大きな海を漂う木の葉は木の葉のまま今日も大きな海のまんなかを精一杯漂っています。

 

 

 

驚いたことに音質が良いのです。DVDバージョンより、VHSバージョンにより近い重厚な音質、孝子さんの当時の歌声がその魅力を余すことなく重厚の中に胸へ響きます。
浜村淳さんの名番組の名コーナー風に、というかそのままに、「私の好きな歌」。私の伴走者であり続けてくれてます。


 ずっと昔にあきらめたパズルが 不意に あとから訳なく 解  けていくように...だなんて言われた日にゃあもう、ダメでしたね、ええ... この言葉に救われたというか、はっきり言うと命をつながれた人、万を下らないんじゃないかと... もっとマシな言葉の魔法かけてあげていたのにって、おっしゃる、いやいや、これほどの魔法、ないですよ...

 

岡村孝子さん あなたへ・・・ Ballade - YouTube

 

今を絶対視しすぎる余り、自殺を企図したりと、
波乱と混迷の絶望の中に、私の10代半ばはあったんだけれども、
時間軸を横に広げて見る、今を相対化する、という、
大人ならば、健良な青少年ならば、当り前に行っている思考操作を、
精神の平衡と統合を失っていた私には出来るはずもなくって、
そこへ、孝子さんの言葉は、霹靂の如く衝撃的に飛び込んできた、

 

命を繋いでくれた、まさに、魔法。

この詞を孝子さんが書かれたのは、孝子さんが20歳になるかならないかのころ。
こんな言葉の魔法、孝子さんどこでどうやって育てられたんだろう…。
 

 

 

ところで・・・

 

今週、母が亡くなった。癌の家系だからということもあって、誰よりも健康に気を使う母だったのに、60歳そこそこで亡くなるのは早すぎる気もするし、むしろ健康に気を使っていたからこそ、致命的な大病を一旦は乗り越えて、20年近く、より長く生きられたようにも思う。せめて、生まれ育った地で最期を迎えさせてあげたかったけど・・・、最後の2か月は転院もかなわぬ病状であって、祖父母介護のため移り住んでいた鹿児島の地で。しかし最後意識のある中で、実の父、実の弟と、末娘には会えたことが心の救いではある。その翌日には、長男とお嫁さんに孫たち、それと長女とその旦那さんと孫たち、それから私、と、面会の許可がおりていて、それぞれに鹿児島へ駆け付けていたのだけど、生き終えて、まだあたたかいうちに手を握ることができたのは、私と、夫である私の父のふたりだけ。あと1日もってくれたら・・・と悔やむのは、しかし故人の望むところではないだろう。

 

ともかくも、私は母より後に逝くことになる。なることができたわけである。孝子さんの、言葉の魔法、そのおかげであると、間違いなく言える。

本当に、昼寝でもしてるんじゃないかってくらい、穏やかな表情だった。あ~寝てもおとったわ、ゆうて目え覚ましてくれるんやないか、って。そんな母の顔をさいご見る事ができた私は幸せ者だ。

 古い映画のように たどる思い出は

 いつかきっと モノクロの世界になる

 

過去を忘れる踏ん切りなのか、モノクロになっても大切に抱き続けるのか、この一節だけでは、断じ得ないところであって、さて、どちらに決意したのか、続きが気になるところだけれど、

モノクロ、といえば、孝子さんの実質的なデビュー曲、広く世に問うた初めての楽曲である『琥珀色の想い出』に書かれた、「琥珀の想い出はいつまでも」を想起せずにはおられず、「あなた」は大切なままに心に生き続けるんだろう、

と思いきや、「あなた」は、胸のずっと奧の地層に、化石だけはせずに、しまいつつも、「あなた」より深く、「誰か」に心を捧げるわよ、と、直後に宣明しており、

大人になりきった孝子さんが、ここに表れていて、

「泣きたいよね 行くところも帰る場所も遠すぎるときには」(『夢の樹』)、「ああ 出来ることなら いつも誰かのそばにいたかった」「しばらく電話なんかしないでよね 帰らないわ」(『今日も眠れない』)、「振り向くと あなたが いつもそばにいてくれるような」(『ひとりぼっちの心を抱きしめて』中庭としえ作詞・岡村孝子補作詞)、

等々、少女と大人とのあわい、少女から自立への、揺れ動く、思春期青年期には誰もが進む、普遍を綴り続けた、孝子さんの、大きな転換点となる言葉になるのかな、

って、早合点させられたのは、ひょっとして孝子さんの意地悪?

早とちりしちゃダメじゃない、って、孝子さん悪戯っぽく笑っていそうな、思うに『白い夏』の第2篇にみせかけておいて巧みに裏切り、ファンを離さないというトリック仕掛けの名曲なのでは。

続く終盤の言葉は、参りましたの過電流でしょう。

 

 迷子になったひな鳥のように あの空をただ見つめてる

 

このとき孝子さんは、まだ、揺れている、私も、まだまだ揺れ続けていて、多分、今でも、いつまでも。

まるで一緒に、迷子に揺らいでくれてるような。

 

俯く心強さに、どれだけ、救われたことか、しかも、今もなお。

宮城県営野球場へ、先輩のSYちゃんと二人で秋季東北大会決勝戦を見に行ったことがある。一塁側に陣どった東北高校のマウンドには、当時すでに、150㌔右腕と騒がれていた、一年生投手・ダルビッシュ投手がでっかく聳え立っていて、さてどれほどの剛球を投げるんだろうかって、二人で話してるうちにプレイボールがかかり、ダルビッシュ君はすっと左足をあげ投げ始めたのだけど、

あれれ?

というのが印象で、

当時の観戦ノートは、すでに散逸してしまっているので、おぼろげな記憶でしか振り返ることはできないけど、

力を込めて投げ込んだ速球は数えるほどしかなくって、

眼前にいたのは、上手から横手から下手から、ひょいっ、ひょいっ、と、直球に半速球、チェンジアップにカーブにスローカーブナックルフォークetc.と、変幻自在に球を操る超技巧派投手ダルビッシュ有であり、

相手チーム、当時はまだ新鋭校に位置していた盛大附の打線は、そりゃあ全く的を絞ることもできず、あっという間に超技巧派投手に抑え込まれてあっという間にゲームセット。

拍子抜けした感もなくはなかったけど、それよりも、受けた衝撃は大きくて、あれほどの大型投手でこれだけ器用でバランスの良い投手を見たのは初めてだったし、たまに力を込めて投げ込んだ速球は、決して速くはなかったけども、球のスピンが空気を切る音は、甲子園球場とは違って銀傘に反響するわけでもないのに、内野席までシュルシュルッ!とはっきり聞こえて来、ただならぬ速球であることは明らか。

これで、先輩で1年生からエースと4番をはった高井雄平選手が辿った道、筋肉が大きくなりすぎてバランスを崩す、ということなく育ってくれれば、当時東北高校には一線級の野手がそろっていたので、これは甲子園優勝も射程内に入ってくるぞおって、期待感を膨らませたもの。

 

あの日、秋季大会にしては強い日差しの下、マウンドにいた超技巧派投手は、いつの間にか、超速球技巧派に大化けして、今はアメリカにいるわけだけど、期待されたようにはMLBでは結果が出ていないようなので、いっそのこと、あのときのような超技巧派に変身してみてるのも一手かな、なんておかしな妄想をしてしまったり。それくらいに印象に残る投球だったのである。

 

ちなみに余談。ダルビッシュ君、態度悪かった。けどこれは内緒、というか、早くから公然の事実か。もひとつ余談、秋の連続講義(お盆前までの試験後お盆明けから9月末まで朝8時50分から夕方18時までぶっ続けの講義が毎日続き直後に試験)の疲労の抜けないまま、しかも資料収集のための貴重な休日を潰して観戦へ出かけたものだから、この一日のブランクを取り戻すのは大変でありました、なにせ卒業要件は164(166だっったっけ?)単位取得と他大學より多い上、試験の採点は厳しく(そりゃあこれでまじめに勉強した学生は伸びますわ)、大学院進学希望の私には80点未満をとることは許されず、かつ早くから論文作成も進めねばならないので、帰宅後即猛勉強モード、ちょいときつい秋となったのも、今では良い思い出。大学は休みが長いだなんて、大嘘よ。