ねむりねこのブログ

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大事なことは、たいていめんどくさい~宮崎駿~ (*´з`)

叔父の「初年兵物語 1」のUPをしたのは、2015年の7月だった。

   初年兵物語 1 

以来5年近くが過ぎてしまった。

前回の27すらちょうど1年前の今頃、出だし

「大寒となり文字通り、寒い日が続く・・( *´艸`)

藤井聡太七段の朝日杯ベスト4、全豪の大坂なおみ、錦織圭のベスト8進出で、暇なリタイヤ生活のいっときを満たして頂いている。」初年兵物語 27

朝日杯ベスト4は今年も同じで、大坂なおみの初戦突破が違う位だ・・・暇なリタイヤ生活は幸か不幸か変わりない。

 

51 再び演習 続き

隊長は、我々に絶対に動くなと注意した。動いては駄目である。何しろ、砂の一粒一粒迄くっきりと浮かび出しているのだから、明るい所はあくまで白く、影はあくまで黒く。動くものなら直ちに発見される。約二三分間も風の無い空に我々の頭上に、漂い照らし続けた。その中に赤い玉の様に見えて来たと思う中に「すーっ」と消え去った。あまりの明るさになれた目に今度の闇は、真の闇。全然目が見えず、照明弾は敵を見つけると同時に、敵の目をくらませる効果もあることを知った。そんなに寒くない。

夜と演習の面白さ、夜の耽るのも忘れた。夜間演習があると、大抵何か美味しいものを呉れた。そして、あまり遅くなると消灯延長と云う事もあった。真夜中に眠りにつくと朝の起床が辛い。我々だけでなく、古兵連中、班長でさえ眠い。だから、起床延期が行われたこともあった。真夜中に眠りにつくと、演習の行き帰りに、色々と面白いことがあった。教官が勝手に我々を先に帰らせて自分一人どこかに行くと云うような時には、助教、助手は、のびのびとなって、割合に暢気に我々を扱い、我々も気を楽にした。往来の途中で、時々、空襲警報が出ると、民家に飛び込んだ。教官は成るべくなら民家の家に入らない様に注意したが、街の真ん中では仕方がなかった。一度、大工の様な所へ入ったが巨大な木を鋸でひいている老爺と青年が居たが、何と棺桶屋だったのには、恐れいった。直径一米以上もある大木を鋸をひいているが、その鋸は歯が両方に向かってついていて、二人でシーソーの様にひいているが、どちらが引っ張ても切れるという気の利いたものであった。

樫木で作るので長期間の使用に耐えるのである。土饅頭の間から覗かれるのはそれである。木材で思い出したが、我々の帯剣の鞘は木製であるので、演習中に大分破損したのが居た。

塗りはすぐにはげて木の身が見えているし、さまはなかった。それに剣を帯革に取り付ける部分は革でなくゴム製であったので、自由が利かず戦闘教練の時等、走って伏せると地面に突き刺さってどうにもならずにもそもそしている奴が沢山いた。空襲で民家に入ったりした時等問題がよく起こったが、走って来るときにさっと鳶が油揚げをさらう様に、兵隊が饅頭をさらっていく事も時々あった。二班のM君は我々と内地から一緒に行動したが狡猾な性格だった。二班でも要領が良いので班長、兵長等からうけが良かったが、そのかわりに同僚からは嫌がられていた。此のM君がやったのである。

所が悪いことに向こうの姑娘(クーニャン:娘)がしつこく

演習場まで追って来たのである。結局、誰がやったか、姑娘には分らなかったので、M君は助かったが、夜の「例の行事」では同僚共々に酷い目にあったのは当然であった。饅頭では色々と面白い事もあったが悲しいこともあった。内地から此処まで五班に入っていたと思うが、A君というのが居た。一寸変わり者であった。大阪外語出身で蒙古語を専攻したというから、その人柄もうなずかれる。このA君は演習や内務班の冷酷な取り扱いに発狂してしまったのである。彼に何を云っても全然反応は無いそうであったが、そのまま信陽の野戦病院に入れられた。病院がどこにあるのか知らなかったが、そのまま信陽の野戦病院へ入れられた。病院がどこにあるのか知らなかったが、病院等よりも故郷へ帰り、母の慈愛の手に抱かれたらきっと、さっぱりと治癒するのではないかと思った。二班の戦友に聞いてみると「空襲、マントウ」等と口走るのだそうだ。原因は僕にも直ちに分った。日曜日の外出には兵長や古兵は許されて出て行った。但し、我々は無論、教育中でだから許可されよう筈がない。それで、我々は彼等に頼んで民間経営の食道で饅頭を買って来て貰う事を常とした。これが公園の隣にあるのである。慰安所と一緒になっている。慰安所は聞こえは良いが、日本の花街に相当する所である。外出の連中は大抵此処へ行く。そこに食堂があって何でも売っている。そして小さい形の饅頭を二列に並べ二重に重ねて約40個20糎(cm)位の長さの紙包にして売っている。地方の値いすれば我々の月給は当然足りない位であるが軍の補助でも受けているのか大変安い。我々の切ない願望は、そんな所にあるのである。我々が公園で演習をしている時、空襲が掛かると直ちに学校やその他の所に逃げ込む。所が、所が兵長や古兵達はもう一寸遠くの此の慰安所迄退避するのである。そして我々の口止め料として此の庭の「マントウ」を時々買って来て呉れるのである。年がら年中腹の空き通しの我々初年兵にとってこれ程有難いことはない。実に魅力的な事件である。我々が教育が終わって自由外出出来たら先ず第一に此処へ来て、腹一杯何でもかんでも喰ってやろうと云うのが、念願だった。A君も我々と同様の気持ちを持っていたのであたのである。そして、頭の組織が用をなさなくなってもどこかにあのうれしかった事がこびりついて残っているのであった。我々が此の事を二班の連中から聞き、兵長が物笑いの種にしているのを聞いて、激しい憤激を覚えると共に、A君の心境を察して暗然として、涙を呑んだのである。助教、助手だけの時の演習は割合に楽しい。無論、無茶苦茶に走らされたりはわせられたりするけれども、彼等も共に行動しているので、文句は云えない。それ所か彼らの頑健さに呆れる位である。但し、教官が来るともういけない。演習は厳しく、灰色のものとなる。中隊長が来ると更にきつくなる。但し中隊長は教官のような兵隊上がりと異なり幹候出身だから物分かりがよくて我々を慰って呉れるのでその割に気が楽である。部隊長が一度巡視に来た。まるでテンヤワンヤである。教官は指揮官が号令しなければしらん顔で演習を続けよと云う。班長が全然無関係で平常通りの行動で良いと云う。結局、教官一人が部隊長相手に行動するだけである。

但し、我々のその時の動作や状態で、もう一ケ月程で検閲が行われるが、その参考等にされる様な印象を与える事になるからやはり緊張した。我々は射撃と前進停止の連携という一番難しい動作を見学された。教官は我々幹候志願者を何食わぬ顔で選り出すと動作を命じた。学校時代にも度々行ったことなので、簡単に出来たが、Kという学校で射撃をやっていたのが居て我々でさえうらやましくなる位の動作をやったので部隊長は大変褒めて行ってしまった。教官も班長も我々も大喜びでK君に感謝した。とに角そこに視線が集中して我々はつけたりであったから、助かったようなものだ。僕の様に眼鏡を掛けている者にとっては、一番損な事は防毒面の着脱である。始めから眼鏡を外している時なら装面にも誰にも負けない自信があるが、一々眼鏡を外してやる時はやはり一瞬遅れる。しかし、始めから外していてやるのは意味がないと思って眼鏡を掛けていて人に負けない位にやれる様に一生懸命工夫し、練習するとやはり同じ位か少し早い位にやる事が出来る様になった。装面して駈足する位苦しい事はない。もう今にもぶっ倒れそうになった時、脱面の号令が出ると魚が水に返った様である。その時の空気の美味い事は何とも云えない。肺の中迄空気がビューと突っ込んで行く程に息を吸う。内面が汗でぬるぬるするのもいやである。

「51再び演習」 おわり

次回 「52 射撃演習」

注 

幹候:幹部候補生 日本陸軍における幹部候補生(かんぶこうほせい)とは、中等教育以上の学歴がある志願者の中から選抜され、比較的短期間で兵科または各部の予備役将校、あるいは兵科または各部の予備役下士官になるよう教育を受ける者[* 1]。場合により幹候と略されることもある。日本陸軍では下士官以上が部隊の幹部という位置づけであった。 叔父は、昭和19年の学徒動員なので、恐らく1944年(昭和19年)に一般の幹部候補生制度から派生した特別甲種幹部候補生であったと思う。(ウィキペディア(Wikipedia)

マントウ:饅頭 小麦粉を使った伝統的な食品で、一般に直径4cmから15cm程度の半球形または、6~7cmの短い蒲鉾型をしている。歴史的には、中に餡や具が入っていたが、現在は中には何も入っていないのが普通(ウィキペディア(Wikipedia)

防毒面:ガスマスク 中国軍からの化学兵器攻撃から身を守るために、ガスマスクを身に付ける日本陸戦隊。分離式の吸収缶を背負っている。(ウィキペディア(Wikipedia)

 

                                 
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