短い手足をバタバタさせながら、「あっあっ」とか、「ぐぅ」とか、「はうー」とか、言うようになった息子
そんな姿が可愛すぎて、息子をお茶受けにお茶が飲めます
そんな日々の中で、もう1冊。
キャッチャー・イン・ザ・ライ
J.D.サリンジャー 著
村上春樹 訳
白水社
- キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)/J.D. サリンジャー
- ¥950
- Amazon.co.jp
野崎さんと村上さん、翻訳の違いで、受ける印象や感想はどの程度変わるのか楽しみにしていました
そうしたら、やっぱり違う。。。
面白いものです。
村上訳の『キャッチャー』の方が、よりホールデンくんの気持ちがわかる、彼の気持ちに寄り添えると、読みながら感じました。
両者の違いが興味深くて、気になった箇所を、大学ノートの左のページに村上訳、右のページに野崎訳、と書き写して、比較して楽しんだりしてみました
学生みたいだ。
使っている単語自体が異なったりもしているので、原文はどちらなのかな? と、原文とも突き合せてみたくもなりました。
ホールデンくんのあの喋りを、最初から最後まで全部英語で読み通す気には、あまりなれないのですが、部分部分で比べてみたいな~。
『キャッチャー』で、私が好きな個所のひとつ。
で、息を整えるとすぐに204号線を駆けて渡った。道路はしっかり氷結していて、それであやうく滑っちまうとこだった。なんでわざわざ走らなくちゃならないのか、自分でもそのへんはよくわからないけど、たぶんただ走りたかったんじゃないかな。道路を渡りきったとき、なんだか自分がすっと消え失せていくような気分になった。つまりそんな感じのでたらめな午後だったんだよ。やたら寒くって、太陽なんかもぜんぜん顔を見せてなくて、ひとつ通りを渡るごとに、自分がそのまま消え失せていくみたいな気がしちゃうわけだ。
(P.12)
この感じ、わかる。
『The Catcher in the Rye』が世界中で多くの読者に愛されているわけも、わかる。
ホールデン少年に丸っきり共感する、とか、彼にすみずみまで感情移入する、とかではなくても、個々の身体の末端のどこかに、ちっちゃなホールデンくんのかけらが存在するように思える。
上記の引用箇所は、実は、私は野崎訳で読んだ時には特に引っかからなかったところなんです。
こういう発見が、楽しい。
もちろん、野崎訳の文章の方がぐっとくる箇所も、いくつかありました。
村上訳だと、さらっと自然に読み流してしまったり。
野崎さんの文章は、いかつくてドラマチック。
タイトルの意味は、もちろん、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で読んだ方が心に浸み込みますね。
じわりじわりと、不思議な感触を残して。
ホールデンくんの語りで、ずん、とアタックされるところ、他にもいろいろ。
こことか、
「そんなのぜんぜん意味ないことじゃない!」
「すごく意味あることだよ! 意味なんてちゃんと大ありだよ! どうして意味がないなんて言えるんだ? どんなことにでもしっかり意味があるってことを、みんなぜんぜんよくわかってないんだ。僕はそういうことにクソうんざりしちまっているんだ」
(P.291)
こことか。
なにしろ口を開けば、単一化しろ、簡略化しろ、そればかりなんだ。でもね、中にはそんなことができないものだってあるんですよ。つまりですね、誰かにそうしろと言われたからといって、はいそうですかって、ほいほいと単一化したり簡略化したりできないものもあるってことです。
(P.313)
ひとつだけ、『キャッチャー』でつまらなかったのは、「ホット・チョコレート」じゃなくて「ココア」と訳されていたこと。
海外児童文学を愛読してきた立場から言うと、「ホット・チョコレート」と「ココア」じゃ、受ける印象がまるで違うんです。
ミヒャエル・エンデの『モモ』の中で出てくる飲み物が、ホット・チョコレートじゃなくてココアだったら、あれほどまでに胸ときめかない。
ココアよりずっと濃くて、熱くて、甘くて、どろっとした魅惑的な飲み物、それがホット・チョコレート!(個人的な見解です)
(でもだからこそ、ホールデンくんにとっては「ココア」なのかなぁ)
『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』も、やっと読めました。
目から鱗の連続。
村上さん、柴田さんの見解に、「そうだったのか…!」と衝撃を受けたり、「そうだったのか…?」と少々首をひねったり。
『キャッチャー』、また読み返してみたくなりました。
奥が深いです。
人それぞれ、作品に対する感じ方、考え方が異なるからこそ、他の人の(例えば村上さんの)感想・意見を読むことはとても楽しい。
小説って底なしに面白いなぁと、改めて感じてしまいました