ジュゴンが死んだり、友達が子どもを産んだり、ご飯を食べ忘れたり、門出を祝ったり。


忙しないのはいつものことだけど、振れ幅が大きいのもいつものことだけど、自分の身体を認識するのに時間がかかるようになってしまった。






言葉や表情や態度から思いやイメージを汲み取って要求に応えるだけじゃダメだ。


いい加減そういうのやめる。


誰かの期待に応えて誰かに存在価値を認めてもらうことでしか自分の形を確認できないなんてつまらなすぎるよね。


液体になるにしたって、能動的に液体になれなきゃ意味がないんだ。







バーカウンターとか後ろの方の壁に寄りかかっているところから、フロアの中に立って、ポケットに手を突っ込みながらもちゃんと自分の力で立ってリズムを取れるようになるまで、2時間かかった。


変わらない笑顔などない。


変わらない笑顔であるように見られたかった。


ベースにドライブをかけるとか、テレキャスでショートディレイでリバーヴたっぷりとか、そうやって生まれる空気の振動があって、やっと重心が定まる。







音楽の中と水の中でしか遊べないかもしれない。


子どもの前では、人間のフリをする。






湿った空気。花の匂い。まだ少し尖った風。


生きてるからまた逢うよ。


止まった時計の針を動かすのは、人の意思だけ。

朝起きて「よし今日はまずギターを弾こう」と思ったのに、朝ごはんを作る時に左手の中指と薬指と小指を火傷してヒリヒリし過ぎて断念…

というところから休日が始まる。




ていうのはまぁ仕方がないこととしよう。




やらなきゃいけないことを無視して現実逃避で笑い転げていられるのはいつまでか、とか、どの程度「何もしない」時間を過ごしたら何かをやる気になるのか、とか、そういう日も含めて人生は実験だ。






私が情けないのは元からなんだけど、曲の1番目立つところでフィルをミスるとか、部活の試合の直前に体育の授業で怪我するとか、映画のクライマックス寸前でにトイレに行きたくなるとか、そういうところって治らないものなのかな。。。




ここぞという時にバッチリ捨て台詞を吐けるとか、なんかそういうかっこよさって、運の良さもあるだろうけど、やっぱり周囲への観察眼と己の力量への分析とがある上でのセンスなんだろうね。







本当にやさしくてやわらかい心を持った人が作るおいしいご飯を食べて、彼の作る音楽にも同じように癒されているのをはっきり感じて、私もこんな人になりたいなーとじんわり思って。

もうちょっとだけ頑張って生き延ばそう、と思えたから、今日はもう寝る。

他人に対して望んでしまうことは、自分でもできるだけそうあるように振る舞わないとな、とは思う。

思うけども。






自分の価値観で見えたり感じたりできる範囲のものと、他人の価値観で見えたり感じたりできる範囲のものが違うのだということは、忘れたくないとも思う。


思うけども。









私は曖昧さが苦手で、いつも「ハッキリして!!」とあらゆる場面で迫りがちだけど。

曖昧さとか不確定な中にこそ何かが生まれるのだと思うから、誰かの煮え切らなさをそのまま受け止めたり、自分の煮え切らなさを少し許して見守るように、意識して生きてみてはいる。。。







すぐに答えが出るものがイイモノだとは思わない。


もちろん、パッと光って見えて、その直感は正しかったのだと、後からわかることもあるけれど。


本当にいいことは、どんなに時間がかかっても、本当にいいものとして現れてくる。


ただ「まだ、もう少し、時間がかかりそうだ」という言い訳を繰り返すことだけは、避けなければいけないとも思う。

繰り返された言い訳は、いつか呪縛に変わるからだ。







物事をハッキリさせたい私が、煮え切らないことを言ってしまってウジウジと悩み続けてしまっているのだけれど、これはこれで、ケリをつけるための助走なのだと考えてみよう。


私は独りで、静かに終わりを迎えるまで、黙って、そっと、失われていくことへの寂しさと向き合う。


君はいつか「あの時食べたかったのに食べなかったお茶漬け」のように私を思い出して、ちょっとだけ悔しい気持ちになって、でもすぐにまた別のおいしいものを食べて満足して、忘れてしまうだろうな。