ヨガの学びを始めた頃

好きだったのは陰ヨガ

痛みをかなり伴う

元々身体が硬いから

泣き出したいくらい

痛くて

だけど自分に意識が向くから

辛いけど好きだった

臀部は

痛みや苦しみを

記憶する媒体みたいな存在で

痛みだけでなく

謎の浄化が起きて

号泣する

ある日先生に

全てを出し切ってしまいなさい

怖がらずに止めないで

出し切ってしまいなさいと

怖すぎて出来なかった

号泣しながらも

まだ

恐いが勝って

出し切れなかった


ただ身体の一部分を

長めの時間をかけて

伸ばしているだけの

身体操作

それがこんなに

心の奥底までも

抉られるなんて

身体と心が繋がっている


実感した


ヨガは始めは苦しい

そこで

辞めてしまう人もいる。

探求心が強いワシ

もっと自分を知りたくなって

ヨガを続けてきた

今でも

ヨガを学び続けているのは

まだ知らない自分と

出会う期待を持っているからだし

それを求める人には

伝えていきたい

それは

苦しみを越えた先の景色を

少なくとも見たときに

違う世界に触れたからだ

人生には

インパクトが必要だ

だけど

求めない人には

全く興味がないことで

ワシが見た景色や

体感は

その方には不要なのだ

自分にとって必要なことは

頭も身体も覚えている

不要なことは忘れる

そして

必要となった時に

引き出しから

不意に出てくるもの


少なくとも

いつかその方の

人生のスパイスや

インパクトを残すことを

意図して

ワシはヨガを伝え続けている

だからと言って

それを背負ってもないし

しなきゃならんとかは

全然ないのだ


ただ座して呼吸をして

己の深いところへ

触れていく

魂とも言えるし

本来の自分とも言える

とはいえ

時々

ヨガをdisってるw

ワシなりの筋が通ってるつもりなんだが

例えば型に拘り

師を探しまわる

これはヨガ的なのか?と

疑問に思う

そして

一生涯

師に教えを乞い

教えを守り

良きヨギとして

ヨガ道を生きる

たまたまワシは

そんな師に出会っていないし

一度は出会えないことが

不運とも思ったが

自分の中に在るヨガに

筋が通っていれば

それでいいし

良き先人の教えを

取り入れる

それも

ちゃんと自分で選ぶ

手放すものも

選ぶ


ヨガはこうあるべきと

型にはめていることが

もう自分で選んでないし

自分の外の価値観だ。

ヨガとは

生き方、生き様

在り方

自分をより知ることから

始まり

どれだけ

自分にとって良き

生命時間を

使って行くかを

選ぶ手助けになるもの

誰かを救うものでも

導くためでもない

あくまでも

自分のためのもの

自分のヨガ道の道の途中に

仲間がいて

そのときにワシの伝えたいことが

たまたまインパクトになれば

それで良し。


この限りある

生命時間の中で

どれだけのことを

自分に体験させてあげられるか

それが

生きていく楽しみであって

別に誰かのために

ならなくたっていい

仮に誰かのためになったとしたなら

その誰かは

たまたま

ワシの生き方や考えに

共鳴してくれただけで

元々、自分の中に持っていたもの



誰かのために生きていきたい

熱に侵され

そうでなければ

自分には価値がないのだと

信じて疑わなかったはずなのに

それは

弱さから

自分からただ

逃避していただけで

良き友でありたい
良き恋人でありたい
良き妻でありたい

いや

そう思われたい。
認められたい。


全く愛のない
エゴイスティックな動機でしかなかった


全てに認められ
全てに愛されたい

なんて

なんて傲慢なんだろう


こうやって

自分の見たくもない

醜さも

見つめること

知ることが

生きかた=ヨガ

には

知ることが必要で

それをまるごと

認める


disるのは

愛であり

健全な形で

ヨガが伝わってくれたら

関わる者として

嬉しい


でも

なかなか

このニュアンスでは

伝わっているようには

見えない


そこに矛盾を感じ

窮屈さを感じ

ワシはワシ型のヨガを

間違ってると

言われようとも

伝えていく


ワシがただ伝えたいから


結果

自分のため

限られた生命時間は

自分のために使いましょーや


それが

たまたま

誰かにインパクトを与えていたら

それは嘘なく、やっぱり嬉しい。


この手すり抜ける
数えきれない
未来を
眺め続けることを
生きると呼ぶの?


人間ごっこ
最近、めっちゃ刺ささった曲。


peacefulな明日を🙏🪷