『川辺に沈む声』
夕暮れの川沿いを歩いていると、
風がひとつ、胸の奥の古い引き出しを開けた。
そこには、
もう二度と会わないと決めた人の声が、
まだ薄く残っていた。
川面に映る光が揺れるたび、
あの日の言葉が、
水の底からゆっくり浮かび上がってくる。
「じゃあ、元気で」
その一言だけが、
どうしてこんなにも長く残るのだろう。
川沿いの道は、昔と変わらない。
舗装の継ぎ目、欄干の錆、
夕暮れの色に染まる水面の揺れ。
どれも十年前と同じなのに、
自分だけが別の場所に立っているような気がした。
あの頃は、
この川を二人で歩いた。
季節の匂いを言い当てる遊びをしたり、
沈黙のまま並んで歩いたり、
そんな他愛もない時間が、
永遠に続くように思っていた。
だが、永遠はいつも静かに終わる。
別れた理由は、今でもはっきりしない。
いや、思い出したくないだけかもしれない。
理由を探し始めたら、
あの頃の自分が崩れてしまいそうで。
橋の下に差しかかると、
風が少し冷たくなった。
川の匂いが濃くなる。
その匂いが、ふいに十年前の夕暮れと重なった。
あの日も、こんな風だった。
川の音がやけに大きく聞こえて、
相手の声が少しだけ震えていた。
「……ごめん」
その一言のあと、
何を話したのか覚えていない。
覚えているのは、
夕暮れの色と、
川の匂いと、
胸の奥に沈んだ重さだけ。
人は、忘れたいことほど鮮明に覚えている。
欄干に手を置くと、
冷たさが指先から腕へとゆっくり広がった。
その感覚が、
なぜかあの人の手の温度を思い出させた。
「元気で」
「そっちも」
あの短い会話が、
どうしてこんなにも重く響くのだろう。
互いに家庭があり、
互いに別々の生活を持ち、
互いに戻らないことを知っているからだろうか。
それでも、
風の匂いがふとあの頃に似ていると、
胸の奥で何かが小さく軋む。
川沿いのベンチに腰を下ろした。
夕暮れの色が深くなる。
川の音が静かに寄せてくる。
ここに座るのは、十年ぶりだ。
あの人と最後に話した場所でもある。
「またね」
そう言われた気がした。
だが、実際にはそんな言葉はなかった。
記憶が勝手に作り出した幻だ。
人は、別れの場面に優しさを付け足してしまう。
そうしないと、
心が持たないからだ。
空が群青に変わる頃、
私は立ち上がった。
もう戻らない。
戻れない。
それでも――
思い出すことだけは、
誰にも止められない。
川の音が背中を押すように響いた。
歩き出すと、
胸の奥の重さが少しだけ軽くなった気がした。
夕暮れの匂いの中で、
私はゆっくり息をついた。
川辺に沈む声 終わり